「変わったもの、拾ったよ」
記録所に着いたのは、昼を過ぎた頃だった。
受付の老人は顔を見て軽く頷いただけで、何も言わない。
エルリックもまた沈黙したままで、閲覧室へ向かった。
昨日と同じ席に荷を下ろし、途中まで読んだ束の続きを手に取る。
窓の外では水路に朝の光が落ちており、舟が一艘、ゆっくりと通り過ぎていった。
昨日分かったことは一つ。
ルカンの家名が、事故記録に残っていた。
それだけで、腕輪の理由は繋がった。
だがそこから先、アルの体質との関係。
調律の概念との接続は、まだ霧の中にある。
エルリックは文献を開いた。
三冊目を読み終えたところで、一つの記録に目が止まった。
事故後のベルネリ森林部における植生調査の報告書だ。
魔力暴走による環境歪曲が森全体に及び、一部の植物に異常な変質が確認されたとある。
通常とは異なる魔法性質を持つ個体が複数発生し、そのうちいくつかは採取不能なほど不安定な状態だったという記述が続く。
エルリックは手を止めた。
変質した植物。
魔法性質の異常。
頭の中で、別々に存在していた断片が静かに動き始めた。
石板の「律する力が土地に満ちるところ、草木は異なる形で応える」という一節。
塔の植物図版に添えられた「調律」の文字。
霧の中で発見した植物。
そしてアルが魔力の強い場所で見せる、あの妙な安定感。
事故が起きたのは十数年ほど前。
アルの年齢と一致する。
変質した植物が森の外に持ち出された可能性。
幼い子供が気に入って持ち帰るくらいの、小さくて目を引く植物。
まだ確信ではない。
だが、これまでで最も真実に近い場所に立っている——そんな手応えがあった。
報告書の該当箇所を書き写す。
手帳のページが埋まっていく。
全部が繋がるかもしれない。
あるいは、繋がらないかもしれない。
あと一歩だ。
何が足りないのかは分かっている。
変質した植物とアルを結ぶ直接の記録——それがまだない。
ベルネリに行けば分かる、とも言い切れない。
ただ、ベルネリに戻らなければ、最後の断片には届かない気がした。
◇
夕方、宿に戻ると、アルはすでに自分のベッドの上で図鑑を広げていた。
今日書き写した草のスケッチに、細かい注釈を書き足している。
ルカンは窓際の椅子に座って、腕を組んだまま目を閉じていた。
眠っているのか、ただ休んでいるのか、外からは分からない。
エルリックは自分の荷を下ろし、手帳を取り出した。
今日書き写した内容をもう一度確認する。
報告書の記述、植生調査の数値、事故後の森の状態。
「アル」
「ん?」
図鑑に視線を落としたまま、アルが応じる。
「子供の頃、ベルネリの森に入ったことはあるか」
「あるよ」
「何か変わったものを見たり、拾ったりしたか」
「うん」
エルリックのペンが止まった。
「……聞いてるか」
「聞いてる」アルはペンを走らせながら言った。
「変わったもの、拾ったよ。光る植物」
「光る植物」
「今も育ててる。家の窓際で」
アルはようやく顔を上げた。
「可愛かったんだ」
「可愛かった」
「うん。葉っぱの形が好きで」
「その植物は、今も元気か」
「元気だよ」
アルの声は弾んでいる。
「旅に出る前に、お母さんに預けてきたんだ。水やり頼んで」
「そうか」
エルリックはしばらく黙っていた。
手帳の上でペンを止めたまま、頭の中で言葉を並べ直す。
「エルリック、記録所終わったら次どこ行くの?」
「まだ決めていない」
「そっか」
それだけ言って、また図鑑にペンを走らせ始める。
エルリックもまた、手帳に視線を戻した。
◇
翌朝、アルが荷物をまとめ始めたのは良かったが、五分後には部屋の床に全ての荷が広げられていた。
「なんで増えてるんだ」
ルカンが低い声を出す。
昨日バレンで買い足した薬草の束、新しいスケッチ帳、正体不明の小瓶が三本、それから石ころが二つ。
「その石は?」
「水路で拾った。きれいな色だったから」
「荷物に入れるな」
「でも」
「入れるな」
アルは石ころをじっと眺めていたが、やがて窓の外の縁にそっと並べて置いた。
ルカンは薬草の束を見て、腕を組み直す。
「これ全部入るのか」
「入る」
「入らないだろ」
「入れる」
扉の前に立っていたエルリックは、そのやり取りを一瞥すると「下で待ってる」とだけ言い残して部屋を出た。
アルは急いで荷を詰め直す。
薬草の束は何とか収まったが、小瓶の一本がどうしても入らない。
ルカンが無言でそれを受け取り、自分の鞄の隙間に押し込んだ。
「ありがとう」
「礼はいい」
二人で階段を降りると、エルリックがすでに受付で精算を済ませていた。
「行くぞ」
馬車を受け取り、バレンを出たのは昼前だった。
城門をくぐると、水路の音が遠のいていく。
石畳が土道に変わり、馬車の揺れが少し大きくなる。
アルは窓から身を乗り出し、遠ざかる街を眺めた。
水路に反射した光が、屋根の上できらきらと光る。
しかし道を曲がると、それもすぐに見えなくなった。
「いい街だったな」
そう言って、窓から顔を引っ込めた。
誰も返事をしなかったが、それを否定もしなかった。
馬車が街道をしばらく進んだ頃、エルリックが口を開く。
「次の目的地を決めたい」
アルは振り向き、ルカンは目を閉じたまま動かない。
「ベルネリに戻る」
短い沈黙。
それからアルが声を上げた。
「ベルネリ?帰るの?」
「ああ。遺跡と森で、確認したいことがある」
「久しぶりだなあ」
それだけ言って、また窓の外に視線を戻した。
特別なことでもないように。
だけど、口元を緩ませながら。
ルカンは目を開けなかったが、窓枠に預けていた腕がわずかに動いた。
膝の上で指を組み直すその仕草を、エルリックは視界の端で静かに捉えたが、何も言わなかった。
「家にも寄れるかな」
「寄れるだろう」
「そっか」
街道を進むうちに、アルが話し始める。
「ベルネリってさ、川沿いに市場があるんだよね。朝早くに行くと魚が安くて、おばあちゃんとよく行ってた」
「ふーん」
「広場の噴水、冬になると凍るんだよ。子供のころ乗ったら怒られた」
「お前が?」とルカン。
「私が」
「そうか」
「あと薬草屋がいっぱいあって、店主が全員顔見知りだから、帰ったらすぐバレると思う」
「何が」
「旅してたこと。絶対根掘り葉掘り聞かれる」
ルカンは特に何も言わなかった。
アルはそれで満足したのか、また窓の外に視線を向けた。
街道の両側に木々が続いており、葉の間から青い空が見え隠れしている。
しばらくしてアルが居眠りを始めた頃、エルリックが静かに問いかけた。
「ベルネリの森には入ったことがあるか」
ルカンは目を閉じたまま、すぐには答えなかった。
少し間があってから、短く返す。
「ある」
エルリックはそれ以上聞かず、ルカンも言葉を続けない。
無言になった車内に、馬車の揺れる音だけが響く。
街道の先に、ベルネリへと続く道が伸びていた。




