表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/29

「おにいさん、つよそう」

エルリックが宿を出たのは、街がまだ朝の空気を残している時間だった。


水路沿いの道を北へ向かい、石橋を二つ渡ったところで記録所の建物が見えてくる。

古い木造の建物で、周囲の商業施設とは明らかに雰囲気が違った。

長い年月をそのまま纏っているような佇まいだ。


扉の上に掲げられた看板には「バレン市立記録所」と彫られており、装飾は一切ない。


中に入ると、受付の老人が顔を上げた。

閲覧の申請を済ませ、通されたのは二階の閲覧室。

天井まで届く書棚には、膨大な文献が並んでいる。

他に利用者の姿はなく、室内にはただ静かな時間が流れていた。


エルリックは棚の前に立ち、背表紙の文字を一つひとつ、慎重に追い始めた。





一方、アルとルカンが宿を出たのは、エルリックから少し遅れてのことだった。


「どこ行く?」


「さあな」


「さあって」


「お前が決めろよ」


アルは少し考えてから「水路沿いに行こう」と提案した。

ルカンも特に異論はなさそうで、二人は並んで歩き出す。


朝の水路は昨日より静かで、荷を積んだ小舟がゆっくりと流れていくのが見えた。

岸の石畳は夜露で湿っていて、陽の当たる場所から順に、白く乾き始めている。


しばらく歩いたところで、アルが立ち止まった。

水路の縁にしゃがみ込み、石組みの隙間を覗き込んでいる。


「何してる」


「草。昨日見たやつと違う種類があったから」


ルカンが近づき、水路の際へ目を落とす。

石の隙間から細い茎が二本伸びており、先端に小さな葉が開いていた。


「へえ……」


「ちょっと待って、スケッチするから」


「落ちるなよ」


「落ちないよ」


アルが図鑑を取り出して身を乗り出した瞬間、ルカンの手がアルの襟をつかんだ。


「今、落ちそうだったぞ」


「落ちてないよ」


「落ちそうだった」


それ以降、ルカンはアルの襟から手を離さなかった。

アルはスケッチを続けながら特に抵抗もせず、ルカンもまた無言のまま、その襟を保持し続けた。





閲覧室の棚の端に、年代別に整理された記録の束を見つけた。

エルリックは目当ての年代を絞り込むと、重みのある束を取り出し、テーブルの上へ広げた。


探しているのは、かつてベルネリの森で起きた魔法事故の記録だ。

規模からして、当時の新聞か公式記録のどちらかに、必ず残っているはずだった。


数冊めくったところで、それらしい記事が目に入った。

見出しには「ベルネリ森林部・魔力暴走事故」とある。

日付は十数年近く前。

エルリックは記事に視線を落とした。


内容は簡潔なものだった。

遺跡内の魔力研究施設で暴走が発生、周辺の森林環境に広範な影響が及んだ。

負傷者数名。

原因は調査中——そこまでは想定の範囲だった。


問題は、その下の一行。

関係者として記載された家名の中に、見覚えのある名前が記されている。

エルリックは、動きを止めた。





スケッチを終えたアルが立ち上がったとき、どこからか小さな話し声が聞こえてきた。


振り返ると路地の角から子供が三人、こちらをじっと伺っていた。

七つか、八つくらいだろうか。

まじまじと、ルカンを見ている。


「……なに」


ルカンが低く言った。


子供たちは顔を見合わせてから、そのままずかずかと近づいてくる。

先頭の一人がルカンの上着の裾をぎゅっと掴む。


「おにいさん、つよそう」


「そうでもない」


「うそだ、つよそう」


アルは思わず、口元を手で覆った

ルカンが子供の手を外そうとするが、子供は離さない。

残りの二人も加わって、三人がかりでルカンの上着を引っ張り始めた。

ルカンは引っ張られながら、アルに目を向ける。


「笑うなよ」


「笑ってない」


「笑ってる」


「笑ってないって……」


アルは吹き出した。

ルカンは子供たちに右へ左へと引きずられながら、深い溜息をついた。





エルリックは、手元の記事を何度も読み返した。


家名は一致している。

王都でも名高いその家名。

知らないものはいないだろう。


規模も、時期も、場所も。

ルカンが腕輪をつけている理由と、それにずっと感じていた違和感が、静かに一本の線で繋がっていった。


閲覧室には依然として、自分以外誰もいない。

窓の外では水路を流れる水の音がかすかに聞こえ、遠くで子供の声がした。


エルリックは記事の内容を手帳に書き写してから、文献を元の棚へと戻す。


まだ足りない。

繋がったのは一部だけで、核心にはまだ届いていない。

アルの体質との関係、調律の概念との接続——それを埋めるには、もう少し先の文献が必要だ。


ただ、今日手に入れた確かな事実はある。

エルリックは手帳を閉じ、ゆっくりと席を立った。





昼を過ぎた頃、アルとルカンが宿に戻ってきた。

子供たちとの攻防は結局一時間近く続き、最終的にルカンが近くの露店で、焼き菓子を三つ買い与えることでようやく決着した。


アルはその一部始終を図鑑の余白に記録しており、ルカンに見つかって取り上げられるという一幕もあった。


少し後になってエルリックが戻ってきたとき、食堂で昼食を待っていたアルが「どうだった?」と声をかけた。


「調べ物は済んだ」


「何かわかった?」


エルリックは椅子を引いて座った。


「まだ途中だ」


それだけ言って、メニューに目を落とす。

アルは「ふーん」と返して、スープを一口すする。


「エルリック、今日は歩いた?」


「記録所の中にいた」


「じゃあルカンより楽だったね」


「何の話だ」


ルカンがアルを見た。

アルはスープを飲みながら涼しい顔をしている。


「子供に一時間引きずられてたのは、ルカンだから」


「お前が笑ってたから長引いたんだろ」


「私が笑ってなくても同じだったと思う」


「そうは思わない」


エルリックはメニューから目を上げ、ルカンに視線を向けた。


「……子供に?」


「……三人がかりだったんだ」


一瞬の沈黙。


「焼き菓子で手打ちにしたんだよ」とアルが補足する。


エルリックは何も言わず、メニューに視線を戻し、ルカンは窓の外に視線を移した。


三人は黙って昼食を食べた。


アルが沈黙をやぶり、水路脇の草について話始める。

アルの話は止まらない。


エルリックは手帳の重さを上着の内側に感じながら、運ばれてきたスープに手をつけた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ