「おにいさん、つよそう」
エルリックが宿を出たのは、街がまだ朝の空気を残している時間だった。
水路沿いの道を北へ向かい、石橋を二つ渡ったところで記録所の建物が見えてくる。
古い木造の建物で、周囲の商業施設とは明らかに雰囲気が違った。
長い年月をそのまま纏っているような佇まいだ。
扉の上に掲げられた看板には「バレン市立記録所」と彫られており、装飾は一切ない。
中に入ると、受付の老人が顔を上げた。
閲覧の申請を済ませ、通されたのは二階の閲覧室。
天井まで届く書棚には、膨大な文献が並んでいる。
他に利用者の姿はなく、室内にはただ静かな時間が流れていた。
エルリックは棚の前に立ち、背表紙の文字を一つひとつ、慎重に追い始めた。
◇
一方、アルとルカンが宿を出たのは、エルリックから少し遅れてのことだった。
「どこ行く?」
「さあな」
「さあって」
「お前が決めろよ」
アルは少し考えてから「水路沿いに行こう」と提案した。
ルカンも特に異論はなさそうで、二人は並んで歩き出す。
朝の水路は昨日より静かで、荷を積んだ小舟がゆっくりと流れていくのが見えた。
岸の石畳は夜露で湿っていて、陽の当たる場所から順に、白く乾き始めている。
しばらく歩いたところで、アルが立ち止まった。
水路の縁にしゃがみ込み、石組みの隙間を覗き込んでいる。
「何してる」
「草。昨日見たやつと違う種類があったから」
ルカンが近づき、水路の際へ目を落とす。
石の隙間から細い茎が二本伸びており、先端に小さな葉が開いていた。
「へえ……」
「ちょっと待って、スケッチするから」
「落ちるなよ」
「落ちないよ」
アルが図鑑を取り出して身を乗り出した瞬間、ルカンの手がアルの襟をつかんだ。
「今、落ちそうだったぞ」
「落ちてないよ」
「落ちそうだった」
それ以降、ルカンはアルの襟から手を離さなかった。
アルはスケッチを続けながら特に抵抗もせず、ルカンもまた無言のまま、その襟を保持し続けた。
◇
閲覧室の棚の端に、年代別に整理された記録の束を見つけた。
エルリックは目当ての年代を絞り込むと、重みのある束を取り出し、テーブルの上へ広げた。
探しているのは、かつてベルネリの森で起きた魔法事故の記録だ。
規模からして、当時の新聞か公式記録のどちらかに、必ず残っているはずだった。
数冊めくったところで、それらしい記事が目に入った。
見出しには「ベルネリ森林部・魔力暴走事故」とある。
日付は十数年近く前。
エルリックは記事に視線を落とした。
内容は簡潔なものだった。
遺跡内の魔力研究施設で暴走が発生、周辺の森林環境に広範な影響が及んだ。
負傷者数名。
原因は調査中——そこまでは想定の範囲だった。
問題は、その下の一行。
関係者として記載された家名の中に、見覚えのある名前が記されている。
エルリックは、動きを止めた。
◇
スケッチを終えたアルが立ち上がったとき、どこからか小さな話し声が聞こえてきた。
振り返ると路地の角から子供が三人、こちらをじっと伺っていた。
七つか、八つくらいだろうか。
まじまじと、ルカンを見ている。
「……なに」
ルカンが低く言った。
子供たちは顔を見合わせてから、そのままずかずかと近づいてくる。
先頭の一人がルカンの上着の裾をぎゅっと掴む。
「おにいさん、つよそう」
「そうでもない」
「うそだ、つよそう」
アルは思わず、口元を手で覆った
ルカンが子供の手を外そうとするが、子供は離さない。
残りの二人も加わって、三人がかりでルカンの上着を引っ張り始めた。
ルカンは引っ張られながら、アルに目を向ける。
「笑うなよ」
「笑ってない」
「笑ってる」
「笑ってないって……」
アルは吹き出した。
ルカンは子供たちに右へ左へと引きずられながら、深い溜息をついた。
◇
エルリックは、手元の記事を何度も読み返した。
家名は一致している。
王都でも名高いその家名。
知らないものはいないだろう。
規模も、時期も、場所も。
ルカンが腕輪をつけている理由と、それにずっと感じていた違和感が、静かに一本の線で繋がっていった。
閲覧室には依然として、自分以外誰もいない。
窓の外では水路を流れる水の音がかすかに聞こえ、遠くで子供の声がした。
エルリックは記事の内容を手帳に書き写してから、文献を元の棚へと戻す。
まだ足りない。
繋がったのは一部だけで、核心にはまだ届いていない。
アルの体質との関係、調律の概念との接続——それを埋めるには、もう少し先の文献が必要だ。
ただ、今日手に入れた確かな事実はある。
エルリックは手帳を閉じ、ゆっくりと席を立った。
◇
昼を過ぎた頃、アルとルカンが宿に戻ってきた。
子供たちとの攻防は結局一時間近く続き、最終的にルカンが近くの露店で、焼き菓子を三つ買い与えることでようやく決着した。
アルはその一部始終を図鑑の余白に記録しており、ルカンに見つかって取り上げられるという一幕もあった。
少し後になってエルリックが戻ってきたとき、食堂で昼食を待っていたアルが「どうだった?」と声をかけた。
「調べ物は済んだ」
「何かわかった?」
エルリックは椅子を引いて座った。
「まだ途中だ」
それだけ言って、メニューに目を落とす。
アルは「ふーん」と返して、スープを一口すする。
「エルリック、今日は歩いた?」
「記録所の中にいた」
「じゃあルカンより楽だったね」
「何の話だ」
ルカンがアルを見た。
アルはスープを飲みながら涼しい顔をしている。
「子供に一時間引きずられてたのは、ルカンだから」
「お前が笑ってたから長引いたんだろ」
「私が笑ってなくても同じだったと思う」
「そうは思わない」
エルリックはメニューから目を上げ、ルカンに視線を向けた。
「……子供に?」
「……三人がかりだったんだ」
一瞬の沈黙。
「焼き菓子で手打ちにしたんだよ」とアルが補足する。
エルリックは何も言わず、メニューに視線を戻し、ルカンは窓の外に視線を移した。
三人は黙って昼食を食べた。
アルが沈黙をやぶり、水路脇の草について話始める。
アルの話は止まらない。
エルリックは手帳の重さを上着の内側に感じながら、運ばれてきたスープに手をつけた。




