「気になってんじゃん」
都市の名は、バレン。
その城門をくぐったのは、昼をやや過ぎた頃だった。
馬車が石畳の上に出た瞬間、音が一変する。
水音と人々の喧騒。
通りの中央を緩やかな水路が走っており、小さな石橋がいくつも架かっていた。
水面は空の色を映してゆらゆらと揺れ、橋の上を渡る人々の影が水底を流れていく。
御者台から眺めるバレンの街は、独特の構造をしていた。
水路に沿って建物が並び、その合間に小さな広場が点在している。
広場ごとに屋台や露店が出ており、人の出入りが絶えない。
バレンは横に広がる街だった。
路地が複雑に枝分かれしており、奥へ行くほど建物の間隔が狭まって、迷路のような様相を呈している。
馬車を街外れの停車場に預け、三人は歩いて街へ入った。
「水路が多いね」
アルが水面を覗き込みながら言った。
橋の欄干に手をかけ、身を乗り出すようにして水底を見ている。
「流通の街だ」とエルリック。
「水路を使って荷を運ぶ。だから商人が集まる」
「へえ」
聞いているのかいないのか、アルは短く返して、視線はすでに橋の向こうの広場へ向いていた。
広場の中央には噴水があり、その周囲を屋台がぐるりと囲んでいる。
串に刺した何かを焼く煙が白く立ち上り、風に乗って甘辛い匂いが漂ってきた。
「あれ、なんだろう」
「歩くぞ」
ルカンが背中を押して、広場とは逆方向へ向けた。
アルは何度も振り返りながらも、大人しくついてくる。
宿の目星をつけるため、三人はひとまず街の中心部へ向かって歩いた。
水路沿いの通りは人が多く、荷を積んだ小舟が水面をゆっくりと進んでいく。
足を水に浸している子供たちが、通り過ぎる舟に向かって何か叫んでいた。
舟の上の男が片手を上げて応える。
エルリックが地図を広げ、足を止めた。
「記録所は街の行政区にあるはずだ。明日は一人で向かう」
「何調べるの?」
「古い文献だ」
それ以上は言わなかった。
アルは特に追及もせず「ふーん」と返して、再び通り過ぎる舟へと視線を向けた。
◇
中心広場に差し掛かった時、ルカンがふと気づく。
隣にいたはずのアルがいない。
振り返るが、人波の中にもアルの姿はなかった。
「……いなくなった」
エルリックも足を止め、振り返る。
「どこで」
「わからん」
二人は来た道を引き返した。
人の流れをかき分けながら広場の入口まで戻ったところで、水路沿いのベンチにアルが座っているのが見えた。
膝の上に図鑑を広げ、熱心に書き付けをしている。
ルカンが近づいても、アルは顔も上げなかった。
「何してんの」
「あ、ルカン。見て、この草!」
アルが指差した先には、水路の石組みの隙間からひょろりと細い茎を伸ばす、小さな草が根を張っていた。
深緑色の葉が数枚、水面に向かって傾いている。
「珍しい形だと思って。図鑑にも載ってなかったし」
「迷子になった自覚は?」
「迷子じゃないよ。今いる場所ちゃんとわかってるもん」
「ここはどこだ」
「……水路のそば」
「街中全部そうだろ」
アルは少し考えた。
「じゃあもうちょっと詳しく言うと、石畳の水路のそば」
「同じだ」
「石畳って言ったよ」
「行くぞ」
「待って、迷子の定義の話まだ終わってない」
「終わった」
◇
宿は水路から一本入った通りにあった。
三階建ての建物で、一階が食堂を兼ねている。
扉を開けると、昼食を終えた客がまばらに残っており、厨房の奥からスープの匂いが漂ってきた。
受付で部屋を確認すると、三人部屋が一つ空いているという。
三人は同時に黙り込んだ。
「三人部屋しかないんですか」アルが言った。
「空きはそこだけです」
アルがルカンを見る。
ルカンは腕を組んで視線を天井に向けた。
エルリックは料金表を確認している。
「……まあ」
ルカンが低く言う。
「広けりゃいい」
「三人部屋ですので、通常より広くなっております」
「じゃあいい」
「え、あっさり決まった」
エルリックが受付に荷物の搬入は自分たちでやると告げ、鍵を受け取った。
階段を上りながら、アルが小声でルカンに言う。
「一人部屋にしなくていいの」
「お前がうるさくしなければいい」
「私うるさい?」
「植物の話を夜中にするなよ」
アルは少し考えてから「努力する」と答えた。
ルカンは何も言わなかったが、口の端がわずかに動く。
部屋に入ると、エルリックがまず窓の位置と机の有無を確認し、手際よく荷を下ろす。
アルは部屋の全容を見るなり、声を上げた。
「ベッド、二つしかない」
部屋の隅にベッドが二つ、壁際に簡素なソファが一脚。
三人部屋と聞いていたが、なるほどそういうことらしい。
「先着順!」
アルは宣言するなり、窓際のベッドに自分の荷物を放り投げた。
残された二人がソファを見る。
「……じゃんけんでいい」
ルカンの提案に、エルリックが無言で右手を出す。
三回やって、エルリックが勝った。
「机に近い方を使わせてもらう」
それだけ言って、ベッドに荷を下ろす。
ルカンはソファを眺めて、一度だけ息を吐いた。
アルがベッドの上で荷物を広げ始めると、中から植物の採集道具や標本が次々と現れる。
小さな紙の束、押し花の挟まった手帳、細い瓶が三本。
「何が入ってんの、それ」
「どれ?」
「細いやつ」
「これは土。これは水。これは——」
「わかった」
「ルカンが聞いたのに」
「だいたいわかった」
「中身気になるでしょ」
「ならない」
アルは瓶を窓枠に並べた。
ルカンはそれ以上何も言わなかったが、しばらくして視線だけが瓶へと戻る。
「……土と水と、何だよ」
「気になってんじゃん」
「最初から気になっていただろう」
エルリックが、図面から目を上げずに言う。
ルカンは答えなかった。
アルは瓶を眺めて満足そうに手帳を開き、それから思い出したように顔を上げた。
「あ、これバレンで採ったやつじゃなくてベルネリのときの。でもバレンにも似たのがいて——」
「植物の話をするなって言ったよな」
「まだ夕方だよ」
「予防線だ」
アルは少し考えてから「そっか」と言って手帳に視線を戻す。
ルカンはソファに腰を下ろし、軋む音を一度確認して黙った。
静かになった二人をちらりと見てから、エルリックは窓に視線をやる。
記録所のある方向だ。
バレンの街が夕闇に沈んでいく。
水路は夕方の光を反射して、静かに揺れていた。




