「踏んで来たよ」
祠が見えたのは、森に入って二時間ほど経った頃だった。
「あれ」
アルが指差した先に、それはあった。
屋根の半分が崩れているが、正面の石碑だけは、ほとんど原形を保っている。
「祠か」
エルリックが足を速める。
「人が来る場所じゃないな」
ルカンが周囲を見渡した。
「獣道もない」
「それだけ奥ってことだよ」
アルは祠の周りに生えている植物に視線を落とす。
「あ、これ。湿地で見たのと近い種類かも」
「後にしろ」エルリックが言う。
「ちょっとだけ」
「碑文が先だ」
アルは植物から目を離さないまま、エルリックの隣に立った。
石碑の表面には、細かい文字が刻まれていた。
風雨で削れた部分もあるが、中央の一段は読み取れそうだった。
エルリックは表面を覆う苔を静かに払い、その言葉をなぞるように口に出した。
「律する力が土地に満ちるところ、草木は異なる形で応える」
三人の間に静寂が落ちる。
「また調律だ」アルが言った。
「石板にもあったね」
「同じ概念が複数の場所に残っている。石板、塔の記録、そしてここ。点在しているのではなく、繋がっている」
ルカンは碑文から少し離れた位置に立っていた。
エルリックが「律する」と読み上げたとき、視線が碑文に移る。
少しの間、その文字を見ていた。
それから、自分の手首——そこにある腕輪に、目を落とす。
「ルカン、何か見えるか。右端の削れた部分だ」
呼ばれてルカンが近づく。
文字の痕跡をじっと見て「読めない」と短かく答えた。
「そうか」
エルリックは手記に書き写しを始めた。
「削れた部分は現地では無理だ。持ち帰って照合する」
「全部書くの?」
アルが覗き込む。
「削れた部分も輪郭だけ写す。後で他の記録と突き合わせられる」
「几帳面だね」
「お前も同じことをしているだろう」
「それはそうだけど」と言って祠の壁に歩み寄り、蔦の陰になっている部分を覗き込んだ。
「こっちにも何か彫ってある。文字じゃないけど」
「紋様か」
「うん。前に見たのと似てるかも」
アルもまた図鑑を開き、その曲線を一本ずつなぞり始めた。
しばらくの間、ペンを走らせる音だけが続く。
「奥にも道がある」
ルカンは祠の周囲を一周して戻ってきた。
「細いけど、続いてる」
「巨木の方か」
エルリックは書き写しを終えて立ち上がった。
「行くぞ」
◇
祠を過ぎると、道の様子が変わった。
植物の密度が増している。
足元の根が絡み合い、頭上の葉が空を覆い始め、光がほとんど届かなくなった。
それでもかすかに残る道の名残を頼りに、三人は一列になって進んでいく。
歩きながら、エルリックが不意に足を止めた。
こめかみの辺りを軽く押さえ、息を整えてから再び歩き出す。
ルカンがそれを見ていたが、何も言わなかった。
しばらくして、ようやく巨木が見えてきた。
幹の直径は、三人が手を繋いでも届かないほどに太い。
根が地面から盛り上がり、周囲に広がっている。
樹齢は数百年、あるいは千年を越えているだろうか。
幹の表面に苔と小さな植物が密生していて、それ自体が一つの生態系のようだった。
「すごい」
アルが言った。
「記録にある巨木と一致する。位置も規模も」
しかし、根元がすぐ近くまできた時。
エルリックの足が不自然に止まった。
止めたのではない、止まったのだ。
「どうした」
「——進めない」
空気が急に重くなった。
魔力の密度が、ここだけ段違いに高い。
足元を見ると、根と根の間を細い蔓が隙間なく埋めていた。
踏み込もうとするたびに、蔓の先端がわずかに持ち上がる。
払いのけようとしても、手が届く前に密度が増す。
「アル」
ルカンの呼びかけに、アルは振り返った。
すでに根元に到達している。
「どうしたの?」
いつも通りの様子で、ただそこに立ち、二人を見ている。
エルリックは一瞬、言葉が出なかった。
「植物が、道を塞いでいる」
「え?」
アルは足元を見た。
「蔓、あったけど。踏んで来たよ」
もう一度周囲を見回して、それから二人に視線を向ける。
何か言おうとして、やめた。
「……待ってる。ゆっくりでいいよ」
それだけ言って、巨木の根元に腰をおろした。
ルカンがエルリックと視線を交わし、一歩前に出る。
片手を静かに持ち上げた。
音も、光もない。
ただ空気が、少しだけ動いた。
足元の植物が、ゆっくりと左右に退いていく。
腕輪がほんの一瞬、白く光る。
すぐに消えたその光を、エルリックは無言で見ていた。
二人が辿り着くと、アルが立ち上がった。
巨木の根元に、三人が揃って立つ。
見上げると、幹が空に向かって真っすぐ伸びている。
アルが幹に手をあてた。
「ねえ、触ってみて」
エルリックもまた、手をあてる。
冷たく、固い木の感触。
「何か感じる?」
「木だ」
「そうだけど」
アルは少し笑った。
「すごく古い感じがする」
巨木の反対側に回り込むと、湿地帯特有の見慣れた植物が多かった。
他にも、苔やキノコが生えている。
視線を巡らせているとふと、違うものが目に入った。
根の隙間、ちょうど影になっている場所。
そこに小さな花が咲いていた。
花びらは透明。
薄い膜のような花びらの向こうに、丸い種がいくつか透けて見える。
花粉も香りもない。
すぐに図鑑を開き、輪郭を写しとる。
透明な花びらの質感を言葉で書き添える。
種の数、根元の土の状態。
ページをめくってみたが、該当する記載はどこにもなかった。
「見たことない」
採取していいか、少し考えた。
「採っていい?」
もちろん、返事はない。
それから、そっと茎を手折った。
指先に温もりが広がる。
それは一瞬。
花を折った瞬間にだけ、暖かさを感じた。
手の中の花を見る。
今はもう、冷たい。
少し首を傾けてから、図鑑の間に挟んだ。
戻ってきたアルを見て「珍しい種類あった?」とルカンが言った。
「一個だけ」
アルは図鑑を開く。
「これ。折ったとき、温かかったんだ」
「今は?」
「冷たい」
二人は無言で図鑑を見る。
エルリックはアルを見ていた。
沼地の植物に触れても何も起きなかった。
魔力が濃い環境でも平然としていた。
そして今——植物が道を塞いでいる中を、一人だけ通り抜けた。
老人の言葉が重なる。
植物が人を通さない。
ただ一度だけ、通れた者がいた。
それは薬草師だったという。
巨木を離れたのは夕方に差し掛かる頃だった。
来た道を戻りながら、エルリックが口を開く。
「次は都市に寄る」
「都市?」
「調べたいことがある。記録所へ行く」
「どのくらいで着く?」
「二日もあれば」
「じゃあ行こう」
アルはあっさり言った。
「記録所って静かなんだよね」
「静かにしろよ」ルカンが言う。
「するよ」
「お前が言うと信用できない」
「失礼だな」
アルは図鑑を開いて、さっきの花をもう一度眺めた。
何でもない顔で。
エルリックは僅かの間、それを見ていた。
そして、静かに視線を外した。




