「残っていない」
「暖かくなってきたね」
アルは窓枠に額をつけた。
「雪もないし」
「それさっきも言ってた」
「何回も言いたいの」
針葉樹の細い幹が流れていき、やがて幅の広い広葉樹が増えてくる。
枝の隙間から差し込む光の色が、北にいた頃とは違う。
湿気を含んだやわらかい光だ。
空気の匂いも変わった。土の匂いがする。
「好き、こういう匂い」アルがぽつりと言った。
ルカンは答えない。
ただ少しだけ、窓の外に目をやった。
森の入り口に位置する集落へ辿り着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
馬車を降りると、湿った空気が体を包む。
通りの左右には薬草や乾燥果実を並べた露店が軒を連ねていた。
アルは馬車を降りた瞬間から、視線をあちこちへ飛ばしている。
「あれ」
指差したのは、露店に置かれた植物の束だった。
「あの束、シダ系だけど種類が混ざってる」
「どれが何だ」とエルリック。
「左の二本が湿地シダで、真ん中がたぶん毒持ちの別種。売り物として一緒に束ねたらまずいと思う」
「どの程度まずい」
「食べたからって死ぬようなものじゃないけど、触れた手で目を擦ったら炎症が出る。子どもが触ると厄介かな」
露店の奥にいた中年の女が振り返った。
日に焼けた顔に、値踏みするような目。
「あんた、分かるの」
「なんとなく」
「なんとなくで分かるもんじゃないよ」
女は腕を組む。
「どこで覚えた」
「祖母に教えてもらって」
アルは動じず、その束を手に取って根元を裏返してみせた。
「これ、根元の色が少し黒いんです。採取した場所が違うはず。湿地シダは乾燥させると毒性が薄れるけど、こっちは残るから」
女はしばらくの間アルの顔を無言で見つめていたが、やがて束を取り上げ仕分けを始める。
「……確かに混じり込んでる。うちの息子が採ってきたんだが、あいつは昔から詰めが甘い」
そう言いながら、ルカンを一瞥する。
「そっちの無口そうなのは何、護衛?」
「旅の仲間です」
「ふうん……」
女はじろじろとルカンを眺め回す。
「随分と育ちが良さそうだ。どこかのお屋敷の坊ちゃんかい?」
「荷物持ちだけど」
短く返すルカンに対し、女はさらに踏み込んだ。
「手が綺麗だよ。荷物持ちしてる割には」
「荷物は持つ」
「でも慣れてない持ち方をしてる」
女は涼しい顔で言った。
「長年見てると分かるんだよ、そういうの」
ルカンは答えず、ただ視線を逸らした。
アルがその様子をちらりと見てから、女に向き直る。
そして口を開こうとした、その時。
「森の奥について伺いたいのですが」
エルリックが静かに割って入った。
「この辺りで、内部に詳しい方は」
「森の奥、ねえ……」
女は露店の奥を顎で示した。
「村外れのベルじいさんなら知ってるかもしれないけど、ちょっと変わり者だよ。話は長いし、半分寝てるし」
「構いません」
「奥に行くつもりなら」
女の声が、一段低くなった。
「……手ぶらで帰ることだけ考えな。欲張ると、ろくなことにならないから」
◇
村外れにある家は、蔦に覆われていた。
戸を叩いても、すぐには反応がない。
長い空白ののち、ようやく中からしわがれた声がした。
「……開いているよ」
室内は薄暗く、一人の老人が椅子に深く腰掛けていた。
膝の上には一匹の猫。
どちらも目を閉じている。
「あの」とエルリックが声をかける。
「……聞こえている」
老人は目を閉じまま応じた。
猫の髭がぴくりと動く。
「森の奥について伺いたいのですが」
「ああ……」
老人はゆっくりと瞬きをした。
「あそこへ行く人間は、もういない」
「理由は」
「戻らないからだ」
部屋が静まり返る。
その目が再び閉じかけたので、エルリックが言葉を継ぐ。
「戻らないというのは、どういう——」
「迷うのではない」
眠ったまま喋っているかのようだった。
「植物が、人を通さない。昔から、そういう場所がある」
老人の目が、うっすらと開かれた。
その視線が、ゆっくりとアルの元で止まる。
「植物に詳しいなら、分かるだろう」
「魔力を持つ植物が密集している場所ですか」
「そう呼ぶならそうだ」
老人は薄らと目を開けている。
「ただ一度だけ、通れた人間がいた。薬草師だったと聞く。ずいぶん昔の話だ。根が深く絡み合って——」
言葉が途切れる。
三人は待った。
「……根が」
また途切れる。
「じいさん」
ルカンの呼びかけに、老人は「起きてる」と即答した。
「根が深く絡み合って、何十年もかけて領域を作る。外から来た者の気配を、植物が拒む」
老人が猫の背を撫でると、猫は片目だけを開けてニャアと鳴いた。
「感じたことはないか。そういう場所を」
「……ある、かもしれない」
アルは少しの間を置いてから答えた。
「ふむ」
頷きながら、また目が閉じていく。
「あの」
「起きてる」
「……さっきの、薬草師の話を」
「ああ、奥から何かを持ち帰ったと、それだけが残っている。名前は知らん。記録もない」
「何を持ち帰ったかは」
「残っていない」
「通れた理由は」
「残っていない」
「他に何か」
老人は静かに言った。
「残っているのは『通れた』という事実だけだ」
完璧な沈黙が落ちた。
「……それだけですか」
「それだけだ」
エルリックの確認に、老人はすっきりとした顔で応じる。
「来てくれてよかったよ。久しぶりに人と話をした」
膝の上の猫が、大きく欠伸をした。
◇
宿に戻ると、主人が三人を見比べる。
丸顔の、愛想のいい男だった。
「珍しい組み合わせだね」
主人は帳簿を捲りながら、楽しげに言った。
「学者と、武芸者と、薬草師?」
「まあ、そんなとこです」
「森に行くの?」
「はい」
「気をつけてね。戻ってくる人はだいたい顔色悪いから」
「戻ってくるならいい方ですね」
アルの言葉に、主人は「そうとも言う」と頷き、三つの鍵を並べた。
「部屋は三つ。一番奥だけ森側だけど、誰にする?」
「どっちでもいい」とルカンが言う。
「じゃあ私」
アルがその鍵を手に取った。
「森側はね、夜中に変な声がすることがあるんだよ」
「気にしません」
アルの即答に、主人は頼もしいねと声をあげて笑った。
それから、ルカンの手元を興味深そうに眺める。
「あなた、育ちよさそうだけど護衛の人?」
「違う」
「じゃあ何」
「旅の仲間」
「それ、みんなそう言うんだよね。その『旅の仲間』ってのは、一体どういう旅なの」
「薬草を探しているんです」
「この森で?」
「森の奥に珍しいのがあるかもしれなくて」
アルが答えると、主人の表情がわずかに変わった。
「ベルじいさんとこ行った?」
「さっき寄りました」
「あの人に話が聞けたなら、本物だね。半分は夢の中にいるような人だから。まあ、どうか顔色良く戻ってきてよ。夕飯は旨いのを用意しておくから」
アルが礼を言いかけたとき、主人がぽつりと付け足した。
「去年、二人組が森に入ったんだ」
「戻ってきましたか?」
「片方はね」
主人は帳簿に視線を戻したまま答える。
「もう片方は、三日後に一人で出てきた。何も語らず、そのまま西へ去っていったよ。それっきりだ」
「……夕飯、楽しみにしてます」
主人はまた笑った。
◇
夜、エルリックは机に向かい、手記を広げていた。
老人の言葉が頭の中で反復する。
植物が人を通さない。
ただ一度だけ、薬草師が通れた。
塔で見つけた図版。石板の記述。
そして、アルが見つけた未知の植物。
それぞれは断片だった。
だが、その断片は確実に同じ輪郭を描き始めている。
そしてその輪郭の中心には、常にアルがいた。
ペンを置き、手記を閉じる。
窓の外を見れば、森が黒い塊となって広がっている。
「植物が人を通さない場所」
エルリックが低く、小さく漏らす。
明日、あの場所へ踏み込むことになる。
もう一度森に視線を向けた。
——あと少しで届く。
森は静かだ。
エルリックは黙って、ただ、それを見ていた。




