「調律」
雪道は、どこまでも単調だった。
アルは膝の上に図鑑を広げ、ときおり顔を上げて景色を確かめ、また手元へ戻る。
そこには昨日描いたばかりの花が並んでいた。色はないが、形だけで鮮やかさが残っている。
「おい、あれ」
ルカンの声に窓に視線をやると、白い平原の向こうに細長い影が立っていた。
雪に半ば埋もれながらも、直線だけは崩れていない。
かろうじて塔だと分かる。
「塔だ」
エルリックが低く呟く。
「古いね。いつからあるんだろ」
ルカンは答えず、ゆっくりと馬車をその影へと寄せた。
近づくほど、埋没の深さがわかる。
入口は完全に塞がれ、アーチの上部だけが顔を出していた。
三人はしばし無言で、塔を見上げる。
「掘る?」
「掘るしかない」
エルリックが即答した。
道具は馬車の備え付けにある。
アルが二本のスコップを引っ張り出し、一本をエルリックに手渡し、自らも構えた。
ルカンは傍らで腕を組み、動く気配を見せない。
「手伝わないの?」
「様子を見てる」
「何の」
「お前らが掘る様子」
アルは返事をせず、そのまま雪にスコップを突き立てた。
エルリックも無言で続く。
しばらくの間、乾いた雪を掻く音だけが響いていたが、やがてルカンが無言で歩み寄り、アルの手からスコップを取り上げた。
「……なんで」
「遅いから」
アルは何か言おうとして、ルカンがすでに倍の速さで雪を退けているのを見て口を閉じた。
入口が現れるまで、そう時間はかからなかった。
重い扉を三人がかりで押し開けると、冷えた空気が流れ出てきた。
埃と、かすかな薬品臭。
中は薄暗い。
採光窓はほとんど雪で塞がれ、細い光が斜めに落ちる。
床には倒れた棚、擦り切れた紙、割れたガラスの破片が散らばっている。
奥に向かって螺旋階段があり、その周囲に机と棚が並んでいた。
アルは足元を避けながら進み、棚を覗いた。
「魔法使いが住んでたのかな」
「研究者だろう」
エルリックが机の埃を払う。
「調べる価値はある」
棚には革装の冊子が残されていた。
エルリックが一冊を取りだし、慎重に開く。
ルカンは壁際の卓へ。
紙束を引き寄せ、黙って目を通す。
アルは階段の影にある薄い冊子に気づいた。
他の本とは明らかに違う。
表紙には植物の押し花が丁寧に貼られ、その下に何かが記されていた。
ページを捲ると図版が現れた。
細密な植物図。
一頁ごとに並んでいる。
葉の形、茎の断面、根の広がり。
構成は祖母の図鑑に似ている。
ただ、違うのは余白だった。
そこに並んでいるのは、数値と記号。
感想も記録もなく、ただ測っているだけのもの。
不意に、ページを捲る手が止まる。
見覚えのある形だった。
細い茎、縁が光を帯びるような輪郭線。
霧の中で見つけた、あの植物だ。
丁寧に描かれている。
余白には数値の羅列に加え、一行だけ、他とは異なる書体の文字が添えられていた。
読もうとしたが、使われている字が古くてすぐには読めない。
アルはその図版のページを開いたまま、しばらく動かなかった。
「エルリック」
静寂の中で、アルが声をかけた。
顔を上げたエルリックに、冊子を差し出す。
「これ、読める?余白の文字」
エルリックは冊子を受け取り、余白に視線を走らせた。
一瞬、沈黙が降りる。
「……古い書き方だ」
ゆっくりと、言葉を拾う。
「全部は無理だが——」
視線が一点で止まる。
「この単語は読める」
アルが覗き込む。
エルリックの指が示した箇所に、短い言葉があった。
「なんて書いてある?」
少しの間があった。
エルリックは一度視線を外し、自分の資料を見る。
それからまた、冊子へと視線を戻した。
「調律、と書いてある」
部屋は静かだった。
棚の奥で、風が何かを揺らす音がする。
エルリックは冊子をアルに渡して、机へ戻った。
同時に、ルカンが壁際の机から顔を上げた。
手元には、地図が広げられている。
「西だ。西の端に、森を示す地形の印があった」
「次の手がかりか」
ルカンは地図を折り畳み、机の上に戻した。
アルもまた、静かに図鑑を閉じる。
それからしばらく塔の中を見て回り、ひと段落した所で塔を出た。
扉を押し開けると、外の冷気が一気に押し寄せてくる。
雪はまだ降っていて、来たときより積もっているようだった。
アルはマフラーを引き上げながら、来た道を振り返る。
馬車までの距離が、行きより遠く感じた。
「入る前より寒くなってる気がする」
「気のせいじゃない」エルリックが淡々と言う。
「日が傾いた」
アルは空を確認した。
確かに光の角度が変わっている。
塔の中にいる間に、思ったより時間が経っていたらしい。
三人は雪を踏みながら馬車へ向かった。
◇
馬車に辿り着くなり、アルは真っ先に小さなストーブに火を入れた。
ルカンが無言で一本の枝を足すと、炎が安定した。
橙色の光が車内を包み込むと、空気が少しずつほぐれていった。
アルは手袋を干し、図鑑と塔で書き写したメモを並べる。
エルリックは冊子から得た情報を、ノートに整理していく。
ルカンは長椅子の端で腕を組み、炎をじっと見ていた。
「あの植物」
アルが口を開く。
「霧で見たやつと同じだと思う」
「ああ」
エルリックが短く返す。
「おばあちゃんの図鑑にはなかったのに、あそこにはあった。しかも調律って書いてあって」
「そうだ」
アルは少しの間、メモと図鑑を交互に眺めた。
それから、不意に顔を上げる。
「お腹すいた」
エルリックのペンを動かす手が止まった。
「今そこ?」ルカンが言った。
「だってすいてるもん。塔の中でずっと動いてたし、掘ってたし」
「お前は掘ってないだろ」
「途中まで掘ってた」
「二回だけだ」
「二回でも掘ったことには変わりないよ」
エルリックはノートを閉じた。
「……何がある」
「干し肉と、芋がまだあったと思う」
アルはもう棚を開けている。
「スープにしようか。エルリックどっちがいい?スープと、そのままと」
「スープでいい」
「ルカンは?」
「どっちでも」
「じゃあスープね」
アルは鍋を引っ張り出し、鼻歌を歌いながら芋の皮を剥き始めた。
さっきまで塔の中で図版を見つめていた顔と、まったく同じ顔で芋の皮を剥いている。
エルリックはそれをしばらく眺めてから、ノートを再び開いた。
スープが煮えるまでの間、車内には緩やかな静寂が流れていた。
雪が降り積もる微かな音と、鍋から漏れるコトコトという音。
「エルリック」
ルカンが静かに声をかけた。
アルは背を向けたまま、鍋の中をかき混ぜている。
「塔の記録。何が書いてあった」
「魔力の観測記録だ」
平坦な声だ。
「この地域の長期記録。植物への影響の推移」
「古いやつ?」
「二百年以上前だ」
ルカンはわずかに頷く。
「……そうか」
エルリックはノートに視線を落としたまま、少しの間を置いた。
「ルカン」
今度はエルリックが呼んだ。
ルカンが視線を向ける。
「お前の魔法」エルリックは静かに言った。
「一度、ちゃんと見せてもらえるか」
部屋の中の空気が、微かに変わった。
アルは鍋をかき混ぜていて、気づかない。
ルカンはエルリックを見た。
黙ったまま、じっと。
それから視線を外し、また目を閉じた。
「……考えとく」
エルリックはそれ以上何も言わなかった。
ノートに一行だけ書き足して、ペンを置く。
「できた!」
アルが振り返った。
湯気の立つ鍋を三人分、椀に注いでいく。
「はい、ルカン。エルリックも」
ルカンは受け取り、一口飲んだ。
「……まあまあ」
「つまり?」
「まあまあ美味い」
「最初からそう言えばいいじゃん」
エルリックは椀を両手で包んで、何も言わずに飲んだ。
窓の外では雪がまだ降り続けている。
アルが空になった椀を置き、棚から地図を持ってくる。
芋の皮が一枚乗っているのを払い落とし、広げてじっと眺め出す。
「次どこ行くんだっけ」
「西だ」とエルリック。
「西のどの辺り?」
「森だ」
アルはしばらく地図を眺めた。
「雪ある?」
「ない」
「よかった」
即答だった。
「雪はもういいや」
「二週間もいなかっただろ」ルカンが言う。
「十分だよ。寒いの苦手」
「軟弱だな」
「ルカンだって昨日すべって転んだじゃん」
「転んでない。滑って膝をついただけ」
「それを転んだって言うんだよ」
エルリックは二人を一度見てから、外へ視線を向けた。
——西には、巨大な森林がある。
そして、記録が示した場所。
騒ぐ二人と静かに視線を置く一人を乗せて。
馬車は、ゆっくりと進路を西へ向けた。




