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「苦い」

異変に気づいたのは、ルカンだった。

山道を進んでいた馬車が、緩やかな下り坂に差しかかったあたりで、不意に口を開いた。


「雪がない」


二人は窓に顔を寄せる。

確かに、景色が一変していた。

少し前まで道の両脇に積もっていた雪が、いつの間にか消えていた。


露出した土、湿った岩肌。

木の幹が、雪をまとっていない。


「暖かいのかな」とアルが言った。


「違う」エルリックが短く切る。


「気温は変わっていない」


「じゃあ何?」


「分からない。降りて確かめる」


馬車を止めて外に出ると、空気が違った。

冷たさは変わらない。

足元には土の感触がある。

アルはしゃがんで、地面に手を当てた。


「温かくはないけど、普通の土だ」


「雪が積もらない理由が何かある。調べながら進む」


三人は馬車を置いて歩き始めた。



しばらく進んだところで、アルが止まる。

道の脇に、花が咲いていた。


白い花だ。


アルは近づき、顔を寄せた。

花びらの縁が微かに透けている。


「なにこれ」


「おい、早く——」ルカンが言いかけて、止まった。


道の先を見ると、同じ花があちこちに咲いていた。

白だけではない。

青、薄紫、淡い黄色。

種類の異なる色とりどりの花が地面を埋めている。

あるいは岩の割れ目から、あるいは木の根元から。

この季節に咲くはずのない花が、一面に広がっていた。


「……すごい」と、アルが小さく呟いた。


エルリックが周囲を見回す。


「魔法の影響か。季節がずれて、植物の生育環境が狂っている」


「狂ってるって言い方はよくないよ」


「事実だ」


「でも綺麗だよ」


エルリックは答えなかった。

ルカンは腕を組んで、黙って花の群れを眺めている。


アルは鞄から図鑑を取り出した。


「記録したい」


「どのくらい」


「たくさん」


「たくさんとは」


「これ全部、図鑑に載ってない」


エルリックは小さく息をつき、ルカンが岩に腰を下ろした。

長期戦を悟ったらしい。


花から花へ移りながら、形を書き写していく。

白い花の花弁の枚数、青い花の葉の形、薄紫の花の茎の高さ。

一つ書き写すたびに、次が気になった。


図鑑のページが埋まっていく。

こういうとき、アルの手は止まらないのだ。


「アル」


「もう少し」


「それを何回聞くことになるんだ」


「これで最後」


「その手はなんだ」


アルは顔を上げた。

エルリックが指差した方向を見ると確かに、次の花に手を伸ばしかけていた。


「……気づいてなかった」


「知っている」


ルカンが立ち上がった。


「行くぞ」


「あと少しだけ」


「さっきから少しだけしか聞いてない」


アルは図鑑を抱えたまま、渋々立ち上がる。

それでも歩みは遅く、視線は常に足元の彩りを追っている。

珍しい形を見つけるたびに、歩幅が小さくなった。

エルリックが先を歩き、ルカンがアルの少し後ろについた。


地帯の奥へ進むにつれて、花の密度は増していく。

足元まで広がり、踏み出す場所を選ばないといけないくらいになった。

アルは慎重に足を置きながら、それでも目は花を追う。


「これ、踏まないように歩くの大変だね」


「植物を優先するな」とエルリックが言った。


「でも」


「足元を見ろ」


アルは足元を見た。

そこにも花がある。


「むずかしい」


三人は、しばらく無言で歩く。


少ししてアルが、また立ち止まった。

道から少し外れた場所に、見たことのない形の花が咲いている。

茎が二股に分かれていて、それぞれの先に色の違う花をつけていた。

一方が白、もう一方が深い青。

同じ茎から、二色の花。


「なにこれ、なにこれ」


アルは道を外れた。

花の前でしゃがみ込み、図鑑を広げる。


エルリックが振り返ったとき、すでに夢中になって書き写していた。


「アル、道から外れるな」


「すぐ終わる」


「すぐの定義が——」


言い終わらないうちに、アルはさらに奥の花へと視線を移していた。

その先に、また別の花が見えた。

立ち上がり、また一歩、奥へ。


「アル」


返事はない。

花の群れの中に、アルの白い帽子が点のように見え、そして動いた。

また別の方向へ、さらに深く。

エルリックとルカンが顔を見合わせる。


気づいたときには、白い帽子が花の奥に消えていた。


ルカンが短く舌打ちする。


「またか」


「行くぞ」


二人は花を踏まないように、しかし足早に奥へと進んだ。


足跡が、花の間についている。

一直線ではなく、あちこちに寄り道しながら、それでもどんどん奥へ向かっていた。


「あいつは」とルカンが言った。


「本能で動いている」とエルリックが答える。


「褒めてるのか?」


「事実だ」


二人は足跡を追った。

魔法の影響は強くなっているはずだ。

それでも足跡は続いていた。

迷いなく、奥へ。


白い帽子が、また見えた。





やがて、木々が途切れ出す。

円形に開けた場所があり、花の密度はここで頂点に達していた。


地面が見えないほどにあらゆる色彩が重なり、混ざり合う。

その中心に、アルがいた。

しゃがみ込み、何かを覗き込んでいる。


「アル」


エルリックが声をかける。


「あ、来た」


特に悪びれた様子はない。


「ここ、すごいよ。全部違う種類だ」


「勝手に離れるな」


「ごめん。でも見て」


アルが指差した先に、小さな花があった。

花びらが半透明で、光を受けると内側が光って見える。


ルカンは周囲を見回した。

この場所に入ってから、アルの様子はずっと変わらない。

普段通りのまま、ただ楽しそうに花を追っている。


「これも記録していい?」


「手短に」とエルリックが答えた。


アルはすぐに図鑑を開く。

花びらの形を書き写しながら、手が止まる。

根元に別の植物が絡んでいた。


葉が厚く、縁が赤い。

魔法植物の特徴だ。


アルがその葉に触れた。


エルリックが気づいて口を開きかけたが、もう遅い。


葉を一枚摘み取ると、鼻先で匂いを嗅ぎ、そのまま口にいれる。


「——アル」


エルリックの声が鋭く響き、ルカンが一歩踏み出す。


二人の視線が集中する中、アルは平然と口を動かし、飲み込んだ。


「苦い」


それだけ言って、また図鑑に視線を戻す。


沈黙が流れた。


エルリックはアルの顔を凝視した。

顔色に変化はなく、呼吸も乱れていない。

手の震えもなさそうだった。

魔法植物の葉を生で口にして、何も起きていない。


「……アル。今、何を食べた」


「葉っぱ」


「分かっている。どういう判断で口に入れた」


「においが面白かった」


「それだけか」


「うん」


アルが顔を上げた。


「なんか問題あった?」


エルリックは答えなかった。


ルカンもまた、アルを見ている。

変わった様子は一つもない。

魔法植物を飲み込んで、「苦い」と言っただけ。


ルカンは歩み寄り、アルの顔を正面から見る。


「気分は」


「普通だけど」アルが首を傾げた。


「なんで?」


「……なんでもない」


ルカンは視線を外した。


「次からは、勝手に食うな」


「毒かどうかくらい分かるよ」


「お前……」


言葉が喉まで出かかる。

しかし、ルカンは口を閉じた。

言いかけた言葉を、飲み込む。


「なに?」


「……気をつけろ、ってことだ」


アルはルカンをしばらく見つめてから、再び図鑑に目を落とす。


「苦いだけで、変な感じはしないよ。本当に大丈夫」


「大丈夫かどうかの問題ではない」とエルリックが静かに言った。


「じゃあ何の問題?」


エルリックは答えない。

ただアルをじっと見ていた。

それからゆっくり視線を外し、周囲の花々へと視線を転じた。


言葉にはしない。まだ、できなかった。


「行こう」


「記録、終わってない」


「終わりにしろ」


アルはエルリックを見る。

その声は、いつもより平坦で。


「……うん、行こうか」


三人は花の地帯を抜け始める。

アルが先頭を歩き、エルリックがその背中を無言で見つめながら続く。

最後尾のルカンもまた、アルの背中を見ていた。



次第に花の密度が薄れ、地面に雪の白さが戻ってくる。

足元が白くなり、踏み出すたびに軋む感触が伝わった。


アルが足を止め、花の地帯を振り返る。


「また来られるかな」


「懲りないな」とルカンが言う。


「だって全部記録できてないし」


「次の目的地がある」


エルリックの言葉に、アルは「分かってる」と頷いた。


「でも、いつかまた来たい」


ルカンは答えず、アルの隣に並んで、同じ方向を少しだけ眺めた。

それから前を向いて歩き出す。


雪道が続く中、風が再び吹き始め、アルは帽子を目深に被り直した。


三人の足音が、雪の上に並んでいく。


辺りは再び、白く染まっていった。

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