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「……生きてるな」

東の山道は険しかったが、洞窟の入口には予想より早く到達した。


町の老人が言っていた「三日」という見積もりは、馬車があれば半分で済んだ。

道は細く、途中から雪が深くなったため馬車を置いて歩くことになったものの、それでも昼過ぎには入口の前に立っていた。


岩肌が大きく口を開けている。

そこから流れ出す空気に、アルは足を止めた。


冷たいというより澄んでいる。

湿り気の中に水の気配が混じり、砂漠の乾いた風とも、北の町の刺すような寒さとも違う、もっと静かな質だった。


「じゃ、行こうか」


アルが言い三人が足を踏み入れると、外の音が急に遠のいた。

風は途切れ、代わりに岩を伝う微かな水音が響く。

エルリックが照明の魔道具を灯すと、壁が一斉にその光を跳ね返した。


壁が光っている。

正確には壁に埋まった氷が光を受けて乱反射していた。

天井も、床も、奥へ続く通路も、すべてが青白く輝いている。


「すごい……」


「進むぞ」とエルリックが言う。


「ちょっと待って」


「何秒待てばいい」


「数えないでよ」


エルリックはそれ以上急かさなかった。

ルカンは壁に背を預けて腕を組み、アルが周囲を見回すのを黙って待つ。


天井から落ちた水滴が床の氷に当たり、小さな音だけが響いた。


通路は奥へ向かうにつれて広くなっていき、踏み出すたびにわずかな軋みが返り、アルは歩幅を小さくする。


壁の質も変わった。

入口近くは岩が目立っていたが、奥へ進むほど氷の層が厚くなり、壁全体が曇ったガラスのように白くなっていく。


「滑らないように気をつけろよ」


「わかってるよ」


言った直後、アルの足がわずかに滑った。

後ろから手が伸びて首元を掴み、ルカンが軽く引き戻した。


「ありがとう」


「どういたしまして」


ルカンはすぐに手を離し、それ以上何も言わずまた歩き出す。


しばらく進んだところで、アルは再び足を止めた。

その視線の先は床だ。


分厚い氷の層の中に、何かが見えた。

最初はただの影かと思ったが、近づいて顔を寄せるとそれが植物であることに気づく。


丸みを帯びた葉が三枚、茎の一点から広がるように生えている。

氷に閉じ込められたまま、完全な形で保存されていた。

色は抜け落ちているが、輪郭はくっきりとしている。

標本のように崩れがない。


「なにこれ」


エルリックが歩み寄る。


「植物だな」


「見ればわかるよ。でも、なんでここに?」


「水と一緒に流れ込んで、気温が落ちた瞬間に凍ったんだろう」


その場に膝をつき、氷越しに覗き込む。

葉の形が珍しい。

縁が細かく波打っていて、葉脈が白い。

図鑑にも載っていなかった。


「図鑑に載ってる?」とルカンが聞いた。


「ない。初めて見た」


「珍しいのか」


「わかんない。でも……」


アルは氷に手を当てた。

冷たさが手袋越しに伝わってくる。


「綺麗だと思う」


ルカンは何も言わなかった。

エルリックが照明を近づけると、氷の中の葉脈がいっそう白く浮かび上がる。


アルは鞄から図鑑を取り出した。


「記録したい」


「どのくらいかかる」


「形だけならすぐだよ」


「お前の『すぐ』は信用できない」


エルリックが小さく息を吐いたが、それを聞き流しすぐに作業に没頭する。

周囲の感覚が薄れ寒さも遠のき、指先の感覚も曖昧になっていった。


「アル」


「もう少し」


「それを聞くのは三回目だ」


アルは顔を上げた。

ルカンが壁から離れ、軽く顎を動かす。

先へ進めという合図だ。


エルリックが掲げる照明が、暗い通路の先を照らしている。


「……行こうか」


図鑑を閉じて立ち上がり、氷の中の植物をもう一度見てから鞄を肩にかけた。



◇



洞窟の奥は静かだった。

踏み出すたびに軋みが深くなる。

氷の層が、ここまで来るともう白一色だ。


「気流が変わった」とエルリックが言った。


言われてみれば、空気の動きが違う。

入口付近では外から風が入り込む感触があったが、今は奥から、横から、ときに上から、方向が定まらない。


「ここから先は慎重に行く」


ルカンが先頭に出た。

アルはその後ろについて、エルリックは最後尾で足元を照らし出す。


通路がまた開けた。

今度の空間はこれまでより一段と広く、壁に埋まった氷がここでは特別に大きい。


人の背丈ほどもある塊が、壁から半分ほどはみ出していた。

表面は滑らかで、内側にはかすかな青さが閉じ込められている。


「でっかいね」


「進むぞ」


背後からエルリックの声が飛ぶ。


「ちょっと待って」


アルは氷の塊に近づいて、表面に手を当てた。

つるりとした、滑らかな硬さ。

内側の青い光が手のひらの輪郭をぼんやり透かした。


「中に何か入ってないかな」


「この厚さでは見えない」


氷の表面に顔を寄せてみる。

青い光の中に、何か細い線のようなものが見えた気がした。


光の歪みか、それとも。


「……あるかも」


「ないと思う」とルカンが言った。


「なんでわかるの?」


「なんとなく」


「なんとなくで言わないで」


しばらくその場に留まっていたが、やがて図鑑を手に取ろうとした。


「待て」


エルリックが止めた。


「記録だけ。すぐ終わるから」


「ここは気流が不安定だ。長居はするな」


アルは図鑑を持ったまま顔を上げる。

エルリックの視線は天井に向いていた。

つられて見上げると氷が所々黒ずんでいて、亀裂が走っている場所もある。


「……描くだけ、すぐ終わるから」


「すぐの定義が信用できない」


「今回は本当に」


「前も聞いた」


「………」


アルが黙る。


図鑑を鞄に戻しながら、氷の塊をもう一度見る。

青い光が一瞬、揺れて見えた。

気流のせいなのだろう。

だけど、そう見えた。


「行くぞ」


ルカンが歩き出し、エルリックが光を持ち直す。

アルが追おうとした、そのとき。


通路の壁に小さな影が映った。

氷の中に、葉がある。


さっきのよりはずっと小さく

細い茎に、三枚の葉。

それでも形はよく似ている。


アルは思わず声を上げた。


「あ、また——」


声が壁に当たり、天井に上がり、そのまま空間全体に広がっていく。


最初は何も起きなかった。


次の瞬間、奥から低い振動が伝わってくる。


氷の塊が、一つ落ちた。

床に当たって、音を立てる。


それを合図に、壁の亀裂がひとつ広がった。


そこから気流が爆発的に乱れ、突風にアルの体がよろけた。

すかさずルカンがその腕を引く。

エルリックが何かを言いかけたとき、振動が轟音に変わった。


逃げる余裕はなかった。


雪だ。

塊ではなく、巨大な波。

奥から押し寄せてきた雪と氷の欠片が、通路を埋める勢いで流れ込む。

アルは声を上げる間もなく、その流れに飲み込まれた。


視界が回る。

床、壁、天井——


そしてエルリックの照明が一瞬だけ目に入って、消えた。



◇



気づいたときには外へ放り出されていた。

雪の上に、三人並んで転がっている。


しばらくの間、誰も動かなかった。


頭上にはどこまでも白い空が広がり、風の音が耳を通り過ぎていく。

どこか遠くで、鳥が鳴いた。


アルが最初に体を起こした。

髪に、服に、手袋の隙間にまで雪が入り込んでいる。


「……二人とも、無事?」


「……ああ」


エルリックが外套の雪を払いながら応じる。

ルカンは仰向けのまま、空を見ていた。


「……生きてるな」


「よかった」


三人はそのまま、しばらく雪の上に身を預けていた。


洞窟の入口からは、冷気がゆっくりと流れ出ている。

中は何事もなかったように静まり返っていた。


アルは立ち上がり、暗い穴の方を振り返る。


「また来られるかな」


「二度と来るな」


エルリックの即答にアルは食い下がる。


「でも植物が……」


「来るな」


ルカンが雪の上からアルを見上げた。


「懲りてないのか、お前は」


「懲りてるよ。……でも、どうしても気になる」


ルカンは何も言わず、視線を空へ戻す。

エルリックは立ち上がり外套を整えた。


アルはもう一度だけ洞窟を見て、それから二人に向き直る。


「帰ろうか」


ルカンが雪の上から手を伸ばす。

アルはその手を掴んで引き上げようとしたが、逆に強く引かれて雪の上に転がった。

ルカンは何事もなかったように立ち上がる。


「なにそれ」


「手が滑った」


「両手で掴んでたけど」


歩き出したエルリックの背を追い、二人の口論が冷たい空気の中に溶けていく。


白く煙る山道の先には、町の屋根が小さく並んでいた。

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