表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/29

「なんか、」

歩き出してまもなく、通路は下り坂に差し掛かった。

床は湿り気を帯び、壁には黒ずんだ染みが滲んでいる。

さらに進むと、空気の質が変化した。

重い空気の中に、どこか妙に甘い匂いがする。


「霧だ」


膝の高さほどの白い靄が、通路の先から静かに流れ込んでいた。

灯りを向けると粒子が光を受け、淡くきらめく。


「綺麗……」


ぽつりと呟いて、そのまま霧の中へ足を踏み入れた。


進むにつれ、霧は腰の高さまでせり上がってくる。

甘い匂いが濃くなり、目が痛むような感覚があった。

息を吸い込むと、喉の奥にわずかな違和感が残る。

けれど、それだけだった。


アルは一度瞬きをして、変わらない歩調で歩き続けた。

毒に強い体質であることは自覚している。

たぶん、そのおかげだろう。

それ以上深くは考えなかった。


霧の通路を抜けた先は、広い空間に繋がっていた。

天井が高くなったことで、霧は床一面に薄く広がっていく。

周囲を照らすと光の端で、何かが揺れた。


近寄ってみると、石の割れ目に草が生えていた。

灰色がかった小さな葉を持つその植物は、霧の中でも妙に瑞々しい。

図鑑をめくって照らし合わせたが、該当する記述は見当たらなかった。


「見たことない……」


しゃがみ込み、顔を近づけてみる。

葉の縁が微かに光を帯びているように見えたのは、気のせいだろうか。

図鑑の白紙のページに、葉の形と茎の様子を手早く写し取る。

余白には、発見した場所の記録も忘れずに添えた。


立ち上がった際、背後の壁に目が留まる。

それは彫刻というより、規則的に並んだ細い線の集合体。

近づいてよく見ると、見覚えのある形が混じっていることに気づく。

遺跡の入口で目にしたあの碑文と、よく似た形状だ。


意味は読めないが、特定の文字が繰り返されていることだけは分かった。

図鑑を開いたまま、その紋様も手早く書き留める。


「エルリックなら、読めるかな」


小さく呟き、図鑑を閉じた。





ルカンが瓦礫の前に立ち尽くしたのは、崩落から間もなくのことだった。

反対側からの迂回を試みたものの、最初の道は行き止まりに阻まれ、二本目は地下深くへと続いていた。


三本目の通路でようやく前進できる道を見つけ、今はアルやエルリックがいるはずの方角を目指している。


不意に、ルカンは足を止めた。


手首の腕輪が、青白い光を帯びていた。

一瞬、輪の表面を光が走り、すぐに消える。


ルカンは腕を持ち上げ、その腕輪を無言で見ていた。

やがて魔法灯を高く掲げ、再び歩き出す。





エルリックが選んだ迂回路は、進むほどにその様相を変えていった。

壁の造りも石の色も、白みがかった滑らかなものに変わっている。


壁面に近づき魔法灯を当てると、そこには細かな文字が並んでいた。


思わず足が止まる。

石板ではなく、壁そのものに記された文字列。

あの広間で目にした記録と同じ書式だ。

端から順に、視線を動かしていく。


それは歴史の断片だった。

前後が欠落しており、文意が繋がらない箇所も多い。

それでも判別できる語句を拾い集めていくと、ある一語が繰り返し現れる。


——律する者。


入口の碑文にあった言葉だ。

エルリックはその一文の前で立ち止まり、じっと見る。

しばらくして視線を外すと、そのまま踵を返し通路の先へ足を向けた。





広間の入口に気配が漂ったのは、アルが紋様の記録を終えた直後だった。


先に現れたのはルカンだ。

アルの姿を認めると、無言のまま距離を詰めてきた。

少し遅れてエルリックも到着し、まずは広間全体の状況を確認してからアルに視線を向けた。


「怪我はないか」


「ないよ。二人は?」


「平気だ」


エルリックの短い返答に、ルカンも無言で頷いた。


三人分の足音が霧の立ち込める広間に重なり、エルリックが床に漂う霧に視線を落とした。


「なんだ、これは」


「ずっとこんな感じだったよ。甘い匂いがして、ちょっと目が痛かったけど、すぐ平気になった」


アルが答えると、ルカンの視線がアルへと向き、一瞬だけ、動きを止めた。


エルリックは霧の立ち込める床を凝視し、自分の手のひらに向けて小さな術式を巡らせた。

魔法灯の炎が微かに揺らぎ、すぐに静止する。


「苦しくなかったし、本当に大丈夫だよ」


重ねて言うと、ルカンは視線を逸らした。

それ以上、誰も霧の正体について触れようとはしなかった。


「ねえ、これ見て」


アルは図鑑を開き、二人へ向ける。


「さっき見つけたんだけど、名前わかる?」


ルカンが横から覗き込む。


「知らない」


「エルリックは?」


「見たことがない種類だ」


「だよね。おばあちゃんのメモにもなかったんだ。あと、壁の紋様も写しておいたよ」


アルが図鑑を差し出すとエルリックが無言で受け取り、その紋様に目を走らせる。


「碑文と同じ書式だ」


「読める?」


「文脈が足りない」


「残念……」


エルリックはさらに奥へと続く通路に目をやった。


「先へ進む」


三人は最深部へ続く道を行く。

合流してからは、口数が少なかった。

黙々と歩いているうちに、通路の突き当たりに着いていて、三人は足を止める。


そこに扉はなく、代わりに現れたのは広々とした石室だった。

中央に据えられた台座には、三枚の石板が並んでいる。


「……続きだ」


エルリックが先に足を踏み入れた。

石板の前に立ち、文字の配列を確かめていく。

ルカンは入口付近で腕を組んだまま足を止め、アルだけが隣まで駆け寄った。


「読めそう?」


「時間がかかる」


「待ってる」


エルリックは解読を始めていて、声には出さず、唇だけを動かして文字列を追っていく。


しばらくして、ルカンが石室の中へ入ってきた。

室内を一瞥し、遠巻きに眺めたまま、石板には近づこうとしない。

アルが振り返ると、ルカンは視線を天井へと逸らした。


「いくつか判明した」


エルリックが口を開く。


「律する力が土地に満ちるところ、草木は異なる形で応える——そう書いてある。北の果てを越えた先ではなく、始まりの地の近くに、その根はある、と」


「始まりの地」


アルがその言葉をなぞる。


「ここではない、ということだけはわかる。方角の記述は風化していて読めない部分が多い。ただ」


エルリックは一度言葉を切り、石板の右端を指した。


「この地形は、砂漠より北を示している可能性がある。あくまで推測だが」


「……そっか」


アルは立ち上がり、図鑑を開いた。

祖母のメモが記されたページを出し、石板の記述と見比べてみる。


銀の葉、霧の中、東の湿地——メモにある単語と、この石板の言葉が直接一致するわけではない。

けれど——


「なんか、」


言いかけて、口を閉じる。

うまく言葉にならなかった。


繋がりそうで、繋がらない。

ただ、どこかに引っかかる。


「なんか、何だよ」


ルカンが短く問いかける。


「……わかんない。なんかあるような気がするだけ」


ルカンはそれ以上何も言わず、エルリックも追及はしなかった。


アルは図鑑を、ゆっくりと閉じた。





砂漠へと戻ったのは、陽が高く登った頃だった。


遺跡の外へ出た瞬間に熱気が押し寄せ、石室の冷えた空気が背中から消えてく。

砂漠の空は白く濁り、地平線まで砂の海が続いている。

馬車は入口から少し離れた岩陰に停めてあった。


三人は無言で砂を踏みしめて歩く。

靴の中に砂が入り込み、アルは片足立ちになってそれを払おうとした。

うまくバランスが取れず、隣を歩くルカンの肩に手をつく。


「重い」


「ごめん」


謝りながらも、手はそのまま。

ルカンも避けることはせず、少しだけ歩調を落とした。

アルは足元の砂を払うのに夢中で、その変化に気づいていない。


馬車に乗り込むと、薬草の匂いがした。

ずっとそこにあった匂いのはずなのに、遺跡の石と土の匂いを嗅いだ後だからか、妙に心が落ち着いた。


三人がそれぞれの定位置に座ると、馬車がゆっくりと揺れ始める。

砂漠を抜ける道はまだ長い。


しばらくして、アルが天井を見上げながら言った。


「次の行き先、どうしようか」


エルリックが手元で地図を広げる。


「石板の地形は北側を示していると思う。欠けた部分も、線の向きからそう読める」


「じゃあ、次は北?」


「他に手がかりがない」


「そっか。北の方は行ったことないしね」


「観光に行くんじゃないからな」


ルカンが口を挟む。


「わかってるよ」


わかっているのかいないのか。

その声の調子からは判別がつかない。


エルリックは何も言わず、前を見た。


「ねえ、北って寒いの?」


「寒い」とエルリックが返す。


「どのくらい?」


「かなり寒い」


「今より?」


「桁違いだ」


「え、死ぬじゃん」


「死なない。装備を整えれば」


アルは腕を組み、しばらく考えた。


「防寒具って高い?」


「高いな」


「……エルリックって時々すごく端的だよね」


「普段から端的だ」


ルカンが小さく吹き出した。

——ような気配がした。

アルが振り向くと、窓の外に目をやった。


「ルカンは寒いの平気?」


「さあ」


「さあって何、さあって」


「嫌いじゃないな」


「それ平気ってこと?」


「そう取ってもらっても、構わないけど」


アルは少し考えてから、「じゃあ、私の防寒具代、少し出してよ」と言ってみた。


馬車の中が一瞬、静まり返る。


「……なんで俺が」


「寒いの平気って言ったから、心に余裕があるのかと思って」


「論理が飛躍しすぎだ」とエルリックが言った。


ルカンも「その通り」と珍しく同意した。


アルは「うーん」と唸り、再び天井に目を戻した。


窓から差し込む砂漠の陽光が、床の上に四角い影を落としている。


「まあいっか。北、楽しみだね」


誰も返事をしない。

否定もしない。

三人はそのまま、黙って揺られていた。


窓の外、砂漠の果ての空が白く滲んでいる。


その先へ向かうように、馬車は北へと進んでいく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ