「なんか、」
歩き出してまもなく、通路は下り坂に差し掛かった。
床は湿り気を帯び、壁には黒ずんだ染みが滲んでいる。
さらに進むと、空気の質が変化した。
重い空気の中に、どこか妙に甘い匂いがする。
「霧だ」
膝の高さほどの白い靄が、通路の先から静かに流れ込んでいた。
灯りを向けると粒子が光を受け、淡くきらめく。
「綺麗……」
ぽつりと呟いて、そのまま霧の中へ足を踏み入れた。
進むにつれ、霧は腰の高さまでせり上がってくる。
甘い匂いが濃くなり、目が痛むような感覚があった。
息を吸い込むと、喉の奥にわずかな違和感が残る。
けれど、それだけだった。
アルは一度瞬きをして、変わらない歩調で歩き続けた。
毒に強い体質であることは自覚している。
たぶん、そのおかげだろう。
それ以上深くは考えなかった。
霧の通路を抜けた先は、広い空間に繋がっていた。
天井が高くなったことで、霧は床一面に薄く広がっていく。
周囲を照らすと光の端で、何かが揺れた。
近寄ってみると、石の割れ目に草が生えていた。
灰色がかった小さな葉を持つその植物は、霧の中でも妙に瑞々しい。
図鑑をめくって照らし合わせたが、該当する記述は見当たらなかった。
「見たことない……」
しゃがみ込み、顔を近づけてみる。
葉の縁が微かに光を帯びているように見えたのは、気のせいだろうか。
図鑑の白紙のページに、葉の形と茎の様子を手早く写し取る。
余白には、発見した場所の記録も忘れずに添えた。
立ち上がった際、背後の壁に目が留まる。
それは彫刻というより、規則的に並んだ細い線の集合体。
近づいてよく見ると、見覚えのある形が混じっていることに気づく。
遺跡の入口で目にしたあの碑文と、よく似た形状だ。
意味は読めないが、特定の文字が繰り返されていることだけは分かった。
図鑑を開いたまま、その紋様も手早く書き留める。
「エルリックなら、読めるかな」
小さく呟き、図鑑を閉じた。
◇
ルカンが瓦礫の前に立ち尽くしたのは、崩落から間もなくのことだった。
反対側からの迂回を試みたものの、最初の道は行き止まりに阻まれ、二本目は地下深くへと続いていた。
三本目の通路でようやく前進できる道を見つけ、今はアルやエルリックがいるはずの方角を目指している。
不意に、ルカンは足を止めた。
手首の腕輪が、青白い光を帯びていた。
一瞬、輪の表面を光が走り、すぐに消える。
ルカンは腕を持ち上げ、その腕輪を無言で見ていた。
やがて魔法灯を高く掲げ、再び歩き出す。
◇
エルリックが選んだ迂回路は、進むほどにその様相を変えていった。
壁の造りも石の色も、白みがかった滑らかなものに変わっている。
壁面に近づき魔法灯を当てると、そこには細かな文字が並んでいた。
思わず足が止まる。
石板ではなく、壁そのものに記された文字列。
あの広間で目にした記録と同じ書式だ。
端から順に、視線を動かしていく。
それは歴史の断片だった。
前後が欠落しており、文意が繋がらない箇所も多い。
それでも判別できる語句を拾い集めていくと、ある一語が繰り返し現れる。
——律する者。
入口の碑文にあった言葉だ。
エルリックはその一文の前で立ち止まり、じっと見る。
しばらくして視線を外すと、そのまま踵を返し通路の先へ足を向けた。
◇
広間の入口に気配が漂ったのは、アルが紋様の記録を終えた直後だった。
先に現れたのはルカンだ。
アルの姿を認めると、無言のまま距離を詰めてきた。
少し遅れてエルリックも到着し、まずは広間全体の状況を確認してからアルに視線を向けた。
「怪我はないか」
「ないよ。二人は?」
「平気だ」
エルリックの短い返答に、ルカンも無言で頷いた。
三人分の足音が霧の立ち込める広間に重なり、エルリックが床に漂う霧に視線を落とした。
「なんだ、これは」
「ずっとこんな感じだったよ。甘い匂いがして、ちょっと目が痛かったけど、すぐ平気になった」
アルが答えると、ルカンの視線がアルへと向き、一瞬だけ、動きを止めた。
エルリックは霧の立ち込める床を凝視し、自分の手のひらに向けて小さな術式を巡らせた。
魔法灯の炎が微かに揺らぎ、すぐに静止する。
「苦しくなかったし、本当に大丈夫だよ」
重ねて言うと、ルカンは視線を逸らした。
それ以上、誰も霧の正体について触れようとはしなかった。
「ねえ、これ見て」
アルは図鑑を開き、二人へ向ける。
「さっき見つけたんだけど、名前わかる?」
ルカンが横から覗き込む。
「知らない」
「エルリックは?」
「見たことがない種類だ」
「だよね。おばあちゃんのメモにもなかったんだ。あと、壁の紋様も写しておいたよ」
アルが図鑑を差し出すとエルリックが無言で受け取り、その紋様に目を走らせる。
「碑文と同じ書式だ」
「読める?」
「文脈が足りない」
「残念……」
エルリックはさらに奥へと続く通路に目をやった。
「先へ進む」
三人は最深部へ続く道を行く。
合流してからは、口数が少なかった。
黙々と歩いているうちに、通路の突き当たりに着いていて、三人は足を止める。
そこに扉はなく、代わりに現れたのは広々とした石室だった。
中央に据えられた台座には、三枚の石板が並んでいる。
「……続きだ」
エルリックが先に足を踏み入れた。
石板の前に立ち、文字の配列を確かめていく。
ルカンは入口付近で腕を組んだまま足を止め、アルだけが隣まで駆け寄った。
「読めそう?」
「時間がかかる」
「待ってる」
エルリックは解読を始めていて、声には出さず、唇だけを動かして文字列を追っていく。
しばらくして、ルカンが石室の中へ入ってきた。
室内を一瞥し、遠巻きに眺めたまま、石板には近づこうとしない。
アルが振り返ると、ルカンは視線を天井へと逸らした。
「いくつか判明した」
エルリックが口を開く。
「律する力が土地に満ちるところ、草木は異なる形で応える——そう書いてある。北の果てを越えた先ではなく、始まりの地の近くに、その根はある、と」
「始まりの地」
アルがその言葉をなぞる。
「ここではない、ということだけはわかる。方角の記述は風化していて読めない部分が多い。ただ」
エルリックは一度言葉を切り、石板の右端を指した。
「この地形は、砂漠より北を示している可能性がある。あくまで推測だが」
「……そっか」
アルは立ち上がり、図鑑を開いた。
祖母のメモが記されたページを出し、石板の記述と見比べてみる。
銀の葉、霧の中、東の湿地——メモにある単語と、この石板の言葉が直接一致するわけではない。
けれど——
「なんか、」
言いかけて、口を閉じる。
うまく言葉にならなかった。
繋がりそうで、繋がらない。
ただ、どこかに引っかかる。
「なんか、何だよ」
ルカンが短く問いかける。
「……わかんない。なんかあるような気がするだけ」
ルカンはそれ以上何も言わず、エルリックも追及はしなかった。
アルは図鑑を、ゆっくりと閉じた。
◇
砂漠へと戻ったのは、陽が高く登った頃だった。
遺跡の外へ出た瞬間に熱気が押し寄せ、石室の冷えた空気が背中から消えてく。
砂漠の空は白く濁り、地平線まで砂の海が続いている。
馬車は入口から少し離れた岩陰に停めてあった。
三人は無言で砂を踏みしめて歩く。
靴の中に砂が入り込み、アルは片足立ちになってそれを払おうとした。
うまくバランスが取れず、隣を歩くルカンの肩に手をつく。
「重い」
「ごめん」
謝りながらも、手はそのまま。
ルカンも避けることはせず、少しだけ歩調を落とした。
アルは足元の砂を払うのに夢中で、その変化に気づいていない。
馬車に乗り込むと、薬草の匂いがした。
ずっとそこにあった匂いのはずなのに、遺跡の石と土の匂いを嗅いだ後だからか、妙に心が落ち着いた。
三人がそれぞれの定位置に座ると、馬車がゆっくりと揺れ始める。
砂漠を抜ける道はまだ長い。
しばらくして、アルが天井を見上げながら言った。
「次の行き先、どうしようか」
エルリックが手元で地図を広げる。
「石板の地形は北側を示していると思う。欠けた部分も、線の向きからそう読める」
「じゃあ、次は北?」
「他に手がかりがない」
「そっか。北の方は行ったことないしね」
「観光に行くんじゃないからな」
ルカンが口を挟む。
「わかってるよ」
わかっているのかいないのか。
その声の調子からは判別がつかない。
エルリックは何も言わず、前を見た。
「ねえ、北って寒いの?」
「寒い」とエルリックが返す。
「どのくらい?」
「かなり寒い」
「今より?」
「桁違いだ」
「え、死ぬじゃん」
「死なない。装備を整えれば」
アルは腕を組み、しばらく考えた。
「防寒具って高い?」
「高いな」
「……エルリックって時々すごく端的だよね」
「普段から端的だ」
ルカンが小さく吹き出した。
——ような気配がした。
アルが振り向くと、窓の外に目をやった。
「ルカンは寒いの平気?」
「さあ」
「さあって何、さあって」
「嫌いじゃないな」
「それ平気ってこと?」
「そう取ってもらっても、構わないけど」
アルは少し考えてから、「じゃあ、私の防寒具代、少し出してよ」と言ってみた。
馬車の中が一瞬、静まり返る。
「……なんで俺が」
「寒いの平気って言ったから、心に余裕があるのかと思って」
「論理が飛躍しすぎだ」とエルリックが言った。
ルカンも「その通り」と珍しく同意した。
アルは「うーん」と唸り、再び天井に目を戻した。
窓から差し込む砂漠の陽光が、床の上に四角い影を落としている。
「まあいっか。北、楽しみだね」
誰も返事をしない。
否定もしない。
三人はそのまま、黙って揺られていた。
窓の外、砂漠の果ての空が白く滲んでいる。
その先へ向かうように、馬車は北へと進んでいく。




