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「なんともないよ。全然」

空がまだ薄暗いうちに、エルリックは動き始めていた。

荷物を確認するわずかな音で、アルは目を覚ます。


寝袋から出ると、冷気がすぐ肌に触れた。

砂漠の夜の名残が、足元に溜まっている。


「さむ……」


思わず漏れた独り言に、誰も何も言わない。

ルカンはすでに建物の影から離れ、地平線の先を眺めていた。


アルは手元にあった水筒を取り、一口飲む。

冷たい水が喉を通るたびに、眠気が飛んでいく。


「朝ごはん、どうする?」


「ない」


ルカンが振り返りもせずに答えた。


「ええっ」


「歩きながら食べろ」とエルリックが続く。


「遺跡まで距離がある。早めに動くぞ」


淡々と告げ、干し肉と硬いパンの包みを差し出してきた。

それを受け取りながら、図鑑を荷物の奥に押し込み、遺跡に向かう準備をする。


「行くぞ」


エルリックが先頭に立って歩き出し、ルカンがその後に続く。

アルは二人の背中を見失わないよう、砂に足を取られながらも一歩を踏み出した。




遺跡の姿は昨日から見えていた。

それなのに、いくら歩いても一向に近づいている気がしない。

砂漠では距離感が狂いやすい——エルリックの言葉の意味が、今わかった。


どこまでも続く単調な景色に飽きてきたアルは、足元へと視線を落とした。

砂の隙間に、時折植物が顔を出している。

それを見て、首を傾げる。

昨日見つけたものと同じ種類のはずだが、何かが決定的に違っていた。


「ねえ」


「どうした」


エルリックが足を止め、振り返る。


「これ、昨日と同じ草なんだけど……」


砂の上にしゃがみ込み、顔を近づけながら続ける。


「色が薄いんだよね。なんか、元気がない感じ」


「砂漠だからだろ」


後ろから追いついたルカンが、アルの手元を一瞥する。


「そういうんじゃなくて」


図鑑を開き、昨日描き留めたスケッチと見比べた。

茎や節の形は全く同じ。

けれど、葉の色が明らかに違う。

深い緑だったはずが、水で薄めたように淡くなっているのだ。


「なんか、毒が抜けたみたいな」


その呟きに、エルリックの眉がわずかに動いた。

ルカンは何も言わず、ただ砂漠の先をじっと見つめている。


それからしばらく歩いたところで、アルはまた足を止めた。

今度は、さっきの棘草とは逆のことが起きていた。


道沿いに、黄色い小さな花が群生している。

見覚えのある植物。

傷口に当てれば治りが早くなる薬草で、旅に出てからも何度か採取している。


だが、近づいた途端、鼻を突くような刺激臭がした。


「これ……ナルゴ草だよね?」


「ああ、間違いない」


エルリックが短く答える。


「なんか、すごく刺激が強くなってる気がする。匂いだけで目が痛いよ」


アルは再び図鑑を取り出し、ペンを走らせる。

花の形はナルゴ草のままだが、その性質は確実に変質している。

図鑑をめくっても、こうした現象についての記述は見当たらなかった。





さらに進むにつれて、辺りの様子はますます不可解になっていく。

最初は色の違いだけだったものが、次第に形まで変わり始めた。

本来は丸いはずの葉が細長くなり、地面を這うはずの茎がまっすぐ上へ伸びている。


そのたびに足を止め、しゃがみ込んでは図鑑と見比べた。


遺跡の影が、少しずつ大きくなっていく。

近づくほどに、植物の異変は誰の目にも明らかだった。


毒草の棘が消え、鮮やかな花が灰白に変色している。

何かが、この場所の植物を根底から変えていた。


遺跡まで、あと少しというところで——アルはまた足を止めた。


目の前に、黒い茎の植物。

葉は深い紫で、先端が鋭く尖っている。


見覚えのある姿だ。

砂漠に入ってすぐ、エルリックに触るなと注意された植物。

触れただけで皮膚が爛れると、薬師も言っていた。


けれど、今は棘がない。

葉の色も、心なしか薄かった。

間近で観察するが、匂いもない。


「アル」


ルカンの鋭い声が飛ぶ。


「ちょっと待って」


「待たない。行くぞ」


反射的に手を伸ばしかけると、ルカンがその手首を掴んだ。

強くはないが、簡単には動かせない。


「でも棘がないし、匂いも全然……」


「だから何だ」


遮るエルリックの声は、いつもより低い。


「見た目が変わっても、成分まで無害とは限らない」


「逆になっているなら、大丈夫かもしれないでしょ?」


「かもしれない、で試すな」


自分の手首を掴むルカンの手を見た。

離そうとする気配はない。


「……わかったよ」


ようやくルカンが手を離す。


アルは立ち上がり、図鑑を開く。

スケッチだけに集中し、宣言通り、手は伸ばさない。


それを見た二人は、先に歩き出す。

アルはもう一度だけその植物を見つめると、二人の背中が遠ざかった隙に、素早くしゃがみ込んだ。


茎を一本、根元から折る。

さらに葉を一枚丁寧に切り取り、図鑑の間に挟んだ。

何食わぬ顔で立ち上がり、そのまま二人の後を追う。


数歩進んだところで、ルカンが立ち止まり振り返った。

アルの手元をじっと見ている。

紫色の葉が、わずかにはみ出していた。


「……いつ採ったんだ、それ」


「さっき」


ルカンは何かを言いかけたが、結局それを飲み込んだ。

エルリックは図鑑から視線を上げ、アルの顔をじっと見た。


「皮膚の様子は?」


「なんともないよ。全然」


しばらく見ていたが、やがて何も言わずに前を向いた。

アルは図鑑をしっかりと抱えて、二人の後を歩く。


言った通り、なんともない。

本当に、何も起きなかった。





遺跡は、思っていたより静かだった。

風の音がない。

砂漠に入ってからずっと耳の奥にあった乾いた音が、入口に近づいた途端に消えていた。


足を止め、周囲を見回す。


「静かだね」


「結界の名残りだろう」


エルリックが言った。


「古代の建築には、外部の干渉を遮断する術式が組み込まれているものがある」


「へえ」


「聞いているか」


「聞いてる、聞いてる」


入り口に積み上げられた石の表面には、細かな文様が刻まれている。

アルは顔を近づけ、その表面を撫でた。

深く刻まれたそれは、長い時間を経てもほとんど摩耗していない。


「触るなよ」


ルカンの声が落ちる。


「罠とかある?」


「知らない。でも触るな」


大人しく手を引き、代わりに文様をスケッチしていく。

植物ではないが、妙に気になる形だった。


エルリックが近づき、文様を目で追う。


「古代ルメリア語だ。一部だけ読める」


「なんて書いてあるの?」


「『律する者のみ、通ることを許す』……前後が欠けている」


「律する者って、どういう意味だろう」


「わからない」


アルはもう一度、文様を見上げた。

言葉の意味はなんとなくわかる。

だが、何を律するべきなのかが書かれていない。


ルカンは入り口の脇に立ち、石の表面へ視線を走らせていた。

その手が、無意識に腕輪のあたりに触れ——すぐに離れた。


「行くぞ」


「うん」


ルカンは何も言わず、先に中へ入った。

エルリックがそれに続く。


アルは入口でもう一度振り返った。

砂漠が広がっている。

さっきまで聞こえていたはずの風の音も、遠くなった。


中へ足を踏み入れると、外の光がすぐに遠ざかっていった。


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