「珍しく意見が合った」
朝の空気は、まだ冷たく心地よい。
アルは荷物を馬車に押し込みながら、お世話になった宿の建物を振り返る。
砂漠の町の壁はほとんどが砂色の石で出来ているが、朝日を浴びて白く輝いていた。
「忘れ物ない?」
「ない」
馬車の奥から、短く返ってきた。
ルカンはすでにいつもの席に収まっている。
「エルリックは?」
「確認した。問題ない」
二人の返事に軽く頷き、自分の荷物をもう一度確認してから、車内へと乗り込んだ。
扉が閉まると、馬のいない馬車がゆっくりと動き出す。
町が少しずつ遠ざかっていく。
門をくぐり抜けると、固い地面の感触は消える。
車輪が砂を踏む乾いた音に変わり、馬車が一度傾いた。
砂漠に入った途端、空気が一変する。
熱い。
窓の外から流れ込む風は完全に乾いている。
アルは窓から顔を出して、地平線まで続く砂の海を見渡した。
「すごい……全部砂だ。砂しかない」
「顔出すな。熱風が入るだろ」
ルカンに言われて窓を最小限まで閉めたが、それでも隙間から熱気が入り込んでくる。
そのやり取りを横目に、エルリックが手元の地図を確認する。
「この時期の砂漠は日中が厳しい。水は十分にあるか」
「うん、あるよ」
「それなら、車内いる分には問題ない、はずだ」
「はずだ」──その言い方が引っかかった。
しかし、その言葉が意味するところを、すぐ知ることになる。
十分も経たないうちに、車内の温度が上がり始めた。
アルはたまらず上着を脱ぎ、エルリックは無言で襟元を緩めた。
そんな中、ルカンだけがいつもと変わらない顔で座席に寝そべっている。
同じ車内にいるとは思えないくらいに普通だった。
「ルカン、暑くないの?」
「暑い」
「昨日も同じだったね」
「同じ答えしかないだろ」
「明日も聞いたら?」
「暑い」
「明後日は?」
「暑い」
「一週間後「暑い」
ルカンはそれ以上口を開かなかった。
——さらに三十分後。
車内は蒸し風呂になっていた。
エルリックが水を一口飲み、アルは窓に額をつけ、外の世界をぐったりと眺める。
意識が溶けていきそうになった、その時。
不意に、空気が変わった。
車内の熱がすっと引いて、涼しさが広がる。
「あ、涼しい」
ルカンは相変わらず目を閉じたまま、何も言わない。
ただ、手首にある腕輪が微かに光を反射して、また静かになった。
エルリックが一瞬だけそれを見たが、すぐ地図へ視線を戻した。
涼しくなった車内でようやく一息ついたアルは、図鑑をぱらぱらとめくる。
砂漠の植物に関する記載は驚くほど少なかった。
祖母のメモも、この辺りのページについてはほとんど空白のままだ。
先祖は代々、暑いのが苦手だったのだろうか。
「ねえ、砂漠って夜は寒くなるって本当?」
「本当」
「どのくらい?」
「凍える程度には」
「昼間こんなに暑いのに?」
「そういうもんだ。すぐ冷える」
アルは「へぇ……」と呟いて、窓の外を見た。
夜になったらこれが一気に冷え切るのかと思うと、少し不思議だった。
「夜はどうやって過ごすの?」
「焚き火だ」
「魔法で暖かくするんじゃないの?」
「使えないやつは毛布だな」
「え、一枚しかないけど」
「俺のを貸してやるよ。これで二枚だ」
「………」
アルは黙り込む。
エルリックは無表情のまま、地図上の現在地を指で指して、淡々と告げた。
「この速度なら夕方に遺跡が見える。道が安定していれば」
「砂漠の道って、安定しないの?」
「砂は動く。昨日の道が、今日ないこともある」
確かに、道らしい道は見当たらない。
馬車は目印のない砂原を、真っ直ぐに進んでいる。
「馬車が迷子になったりしないかな」
その独り言のような呟きに「ならない」とルカンが断言した。
◇
日が高くなった頃。
アルが突然声を上げた。
「あ、止まって!」
馬車がゆるやかに減速する。
外へ降りると、むわっとした熱気が体を包んだ。
駆け足で近づいてよく見ると、砂の中に小さな植物が群生している。
葉の表面には赤い棘が密集していて、先端には黄色い花。
図鑑では見たことがない種類だ。
「何してるんだ」
ルカンの声が馬車の中から飛んでくる。
「植物だよ。見たことないやつ」
しゃがみ込み、その棘に指を伸ばした時。
「待て」
エルリックが馬車から降りてきた。
「それに触るな。砂漠の棘草は、接触するだけで——」
「あ、ちょっと痺れる」
すでに触っていた。
軽い痺れがあるが、腫れや赤みはない。
強い毒性植物ではなさそうだ。
指先をじっと眺め、その様子を観察する。
「なるほど。こういう感じか……」
場が、静まり返った。
「図鑑持ってくるね」
足早に馬車に戻る背中を見ながら、エルリックは何かを言いかけ口を閉じ、ルカンは窓枠に身を乗り出したまま「触るなって言ったろ」とため息をついた。
それからしばらくスケッチに没頭していたアルが、ふと顔を上げる。
「性質が逆になる……」
「何だって?」とルカン。
「薬師のおじいさんが言ってた。遺跡の周りは植物の性質が逆になるって」
棘草は、見た目は毒草に見える。
だが——
「毒が薬になったり、薬が毒になったり。もしそうなら、この子も何か変わってるのかな」
その問いに、誰も、何も言わなかった。
「よし、スケッチ終わり!」
立ち上がり、服の砂をパッと払う。
「待たせてごめん。行こっか」
◇
車内に戻ると、アルはすぐに図鑑を開き、熱心に書き込みを足していく。
「見て、この棘草!」
図鑑を目の前に差し出すと、ルカンは一瞬だけ見て、すぐに窓の外へ視線を戻した。
「だから何だよ」
「珍しいんだよ、砂漠の棘草。おばあちゃんのメモにも載ってなかったんだから」
「ふーん。よかったな」
次にエルリックに図鑑を向けた。
じっとそれを見つめて、一言。
「描写は正確だ」
「でしょ?」
「だが、次からは触るな」
「大丈夫だよ。毒には強いから」
「問題はそこじゃない」
まじめなトーンで返され、アルは図鑑を胸に抱えた。
「エルリックの言う通りだ」
「えっ、ルカンまで?」
「珍しく一致した」
アルは目を丸くして、2人の顔を交互に見合わせた。
「二人が仲いいのが、一番びっくりなんだけど」
率直に言うと、エルリックは視線を落とし、小さく咳払いをした。
日が傾き始める。
砂漠の光が斜めになり、砂の色がオレンジ色に変わっていく。
「そろそろ見えてくるはずだ」
アルは目を凝らした。
地平線の向こう、砂と空の境目のあたりに、黒い影がある。
「あっ、見えたかも!」
「遺跡だ」
それは思ったよりもずっと大きかった。
まだ距離があるはずなのに、建物の稜線がはっきりと見える。
崩れた柱のような形が、夕空を背景に黒く浮かび上がっていた。
「大きいね」
「古代都市の規模だ。あれでも全体の一部らしい」
アルは遺跡から目を離さなかった。
図鑑を膝に置いたまま、ただその影を見つめる。
ルカンが身を起こし、窓の外を一瞬だけ眺めると、また座席に転がった。
「今日はどこで止まるの?」
「遺跡の手前に廃村がある。そこで野営が可能だ」
「野営!」
アルの声が跳ねた。
「明日の朝から遺跡に入る」
巨大なシルエットが、夕闇に飲まれていく。
魔法が乱れ、性質が反転する——
遺跡はもう、目の前だ。




