244 徒競走、オレと一緒に走ろうぜ
九月半ばになった。体育の時間、運動会に向けて練習をすることになった。その日の空は、朝から白くかすんでいた。雲に光が鈍く反射して、校庭の砂がいつもより灰色に見えた。
「じゃあ、各学年ごとに並んでくださーい!」
拡声器を通した先生の声が校庭に響いた。ざわざわと子どもたちが動き出し、クラスメートたちは決められた位置に整列した。剣奈は体操服の裾を指先でつまみながら列の端に立った。ざわついた雰囲気。なんとなく胸がそわそわとして落ち着かなかった。
(今日から本格的に運動会の練習……)
近くで彩花が友達と楽しそうに話していた。彼女らの笑い声が灰色の砂のように剣奈の心をざらりと刺激した。
「まずは縄跳びでウォームアップだ。その後、徒競走のスタート練習するぞー」
体育の先生がそう言うと、子どもたちは縄跳びを取りにばらけた。剣奈も教室に向かった。
「えーと、三年二組の縄跳びは……」
剣奈は皆が群がっている教室の後ろを背伸びしながらのぞき込んだ。縄跳びが束になって掛けられているフックを見ながら一つずつ名前を確認していった。
「……高瀬、相沢、長谷川……あれ?」
目視で見つからなかった。そこで剣奈は縄跳びの縄を手でかき分けながら探した。みんなはどんどん自分の縄をとって出ていった。剣奈はついに自分の名前の縄跳びを見つけられなかった。
「あれ?落ちちゃった?」
剣奈はキョロキョロとフックの周りを確認してみた。けれども、どこにも「久志本」の名前の縄跳びはなかった。背中に、ひやりとした汗が流れ落ちた。
(あれ?ない…… どうして?昨日、ちゃんと片づけたのに。え?もしかして倉庫に?)
縄跳びは教室のフックにまとめて掛けておくことになっていた。けれどうっかり運動場に置き忘れられたものは体育倉庫にまとめて片付けられるのである。
剣奈は慌てて体育倉庫に走っていった。
ガラリ
剣奈は倉庫の扉を開けた。倉庫はほこりっぽくて暗かった。棚にボールやマットがつめこまれていた。鉄と石灰と湿っぽいホコリが混じったような独特の臭いがした。
その時、倉庫の入り口からひそひそ声が聞こえてきた。
「ねえ、また剣奈のだけないんじゃない?」
「忘れ物、多いよね、あの子。前もさ、貸したボール返さなかったし」
「だよねー、ありえないよねー」
女子たちがくすくす笑いながら嘘をまことしやかに言っていた。剣奈は振り返らなかった。視線が合ったら、さらになにを言われるか怖かった。剣奈は倉庫の棚の奥を探してみた。けれど、自分の縄跳びは見つからなかった。
「先生……」
剣奈が倉庫から出ると、担任の由香里がちょうど他のクラスの先生と話しているところだった。
「あら? 久志本さん、どうしたの?」
「ボクの縄跳び、見つからなくて……」
由香里は少し困ったように眉をひそめた。
「そう…… 昨日、片づけるときにちゃんと確認した?」
「はい。ちゃんと……」
その返事の弱さにかぶせるように、後ろから声が飛んだ。
「また剣奈、なくしたんじゃないですか?」
「いつも忘れ物してるしー」
「昨日なんて私のに名前上書きされそうになったしー」
結衣、彩花らがわざとらしくあきれたように、そして悲しそうに言い募ってきた。
(そんなこと、ない……)
彩花らの嘘を聞いているうち、剣奈の耳の奥がじんじんと熱くなっていった。
「はぁ」
由香里はため息を一つついた。剣奈の肩がビクッと震えた。由香里は棚の上に置いてあった予備の縄跳びをめんどくさそうに一つつまんだ。そしてあきれた顔で剣奈にそれを差し出した。
「じゃあ、今日はこれを使いなさい。あとで、ちゃんと自分の名前のを探しておくようにね」
「……はい」
由香里が渡した縄跳びは白いビニールのものだった。ところどころひび割れていて、持ち手も削れていた。相当古いものなのだろう。剣奈の受け取る指先がかすかに震えた。
(なくしてないもん…… ボク、昨日、ちゃんと入れたもん…… それにひとのに名前上書きなんてしないもん……)
けれどそれらの言葉は、喉の奥につっかえて出てこなかった。
剣奈が校庭に戻ると、すでにみんなは縄跳びのウォームアップを終えていた。そして徒競走のスタート練習が始まろうとしていた。白線がまっすぐ引かれ、スタートラインにみんなが足を合わせていた。
「じゃあ、ゼッケン一番から八番まで並べー!」
剣奈は慌てて縄跳びをみんなが置いた場所にそっと置いた。そして自分のゼッケン番号を確認し、スタート位置に走っていった。列の隣を見ると彩花が並んでいた。その後ろで結衣が意味ありげな笑みを浮かべていた。
「よーい……」
先生の合図に合わせて、剣奈は腰を落とし、前に出した足に重心をかけた。次の瞬間。
「あっ!」
後ろから、くいっと足首を引っかけられ、背中を押された。バランスを崩した剣奈は、前のめりに地面に突っ込んだ。
ゴツッ
両手と膝が地面に勢いよくぶつかった。顔が地面にこすれて、砂煙が上がった。
「わっ、ごめーん。つまずいちゃった?」
背後から、明らかにわざとらしい結衣の声がした。笑いを噛み殺したような空気が、周囲に広がった。
「……っ」
膝がひりひりして、砂が体操服に貼りついていた。痛みよりも、嘲笑と突き刺さる視線が痛かった。
「だいじょうぶ?」
駆け寄る足音と声変わり前の少年の声が聞こえた。剣奈は顔を上げた。相沢蒼真がしゃがみ込んで、剣奈の膝を覗き込んでいた。
「あははは。お前、運動神経いいのにそそっかしいところあんだな。しっかり転んだな。血、出てるじゃん」
「へ、平気……」
剣奈は、とっさに足を引こうとした。しかし蒼真がそれを止めた。
「無理すんな。先生ー!こっち、擦りむいてます!」
蒼真の声に、先生が駆け寄ってきた。女子たちの列から、ひそひそと囁きが漏れた。
「あーあ、また転んでる」
「ドンくさ」
「そして出たよー、可哀そうなボクアピ」
「「「アハハハハハ」」」
棘のある言葉が剣奈の胸の中にじわじわ広がっていった。先生が救急箱から消毒液を取り出して駆け寄った。剣奈の膝が手当てされた。言葉の痛み、ひりひりする痛み、そしてアルコールの匂いが混ざり合い、剣奈の思考をぐちゃぐちゃにした。
その時、泣きそうになった剣奈の肩にそっと手が置かれた。暖かい手だった。
「久志本、走れそうか?」
「……うん」
剣奈がうつむきがちに答えると、手を置いた蒼真がにかっと笑った。
「なあ、徒競走、オレと一緒に走ろうぜ」
「え?」
「本番。オレ、隣だろ。お前、そそっかしいしさ。オレが横にいたら転んでもちゃんと受け止めてやるよ」
軽い口調だったが、その目は真剣だった。剣奈はきゅっと唇を噛み、それから小さくうなずいた。
「……うん」
そのやりとりを、少し離れた女子列から彩花がじっと見ていた。眉間に皺を寄せ、口元をゆがめていた。
(なに、それ)
彩花が鬼のような顔に変わった。彼女の胸の奥で、ざわざわと黒い何かが膨らんでいった。




