243 保健室への逃亡とセーブポイント
国語の時間になった。
「じゃあ次は……久志本さん」
「はい」
剣奈は立ち上がり、教科書を読み始めた。
「そのとき、太郎は――」
読み始めた瞬間、後ろでくすっと笑いが漏れた。
「声作ってない?」
「アニメのヒロインみたい」
「やだ、「わたしのかわいい声、聞いて?」」
「「「あはははは」」」
意識した途端、剣奈の声が上ずった。文字が目の前でふわふわと踊っているように見えた。
(ボクの声、おかしいのかな……)
――――
結衣、彩花、真由、七海によるいじめは執拗に続いた。
理科の時間、剣奈が先生の質問に答えた。すると、
「はいきた、クイズ王」
「また答えるの?すごーい」
音楽の時間、剣奈は高く澄んだ声で歌い出した。すると、
「歌まで上手いアピかー。さすが抜かりない」
「男子の前だもんね」
「やだ、エローい」
なにをやっても、聞こえよがしの嫌みを言われた。彼女らの声が、剣奈の心をじわじわと追い詰めていった。
そうした声と雰囲気に担任の由香里はもちろん気づいていた。けれど、黒板に図を描いたり、教科書を読むのに忙しいふりをしながら、彼女らの声に気づかない風を装っていた。
(まあ、女子同士のよくあるやつでしょ。あんまり首つっこむと面倒だもんね)
そう心の中でつぶやきながら。
そんな日が、いくつも重なった。
ある朝。
「……お腹、痛い」
玄関で靴を履きながら、剣奈が小さくつぶやいた。
「大丈夫?」
千剣破が心配そうに声をかけた。
「う、うん。ちょっとだけ……」
そう答えながら、剣奈は胃のあたりを押さえた。きゅうっと、ひねられるような痛みがあった。
キュウウ
金弧が剣奈に寄り添って腕をぺろぺろと舐めた。白蛇が腕に巻き付いて頬をぺろりと舐めた。
「あ、だ、大丈夫だよ。ごめんね、心配させて」
(ただの緊張。……きっと、ただの緊張)
剣奈は自分にそう言い聞かせてランドセルのベルトを強く握った。
「行ってきまーす」
けれど…… 教室に着いても、胃の痛みは消えなかった。イスに座っているだけで、嫌な汗がじわりとにじんできた。
「先生……」
三時間目の前、剣奈はついに手を挙げた。
「どうしたの?」
「……お腹が、ちょっと痛いです」
「やだー うんちー?」
「はしたなーい」
「「「あはははは」」」
由香里は、一瞬だけ眉をひそめたのち、すぐに笑顔を作った。
「大丈夫よ。保健室に行ってらっしゃい」
「うわっ、サボり」
「演技ばっかだと疲れるもんね」
「「「あはははは」」」
結衣たちのひそひそ声が、背中を追いかけてきた。廊下を歩く足が、少しふらついた。涙がこぼれた。保健室の白いドアが、やけに遠く見えた。
コンコン
「どうぞー」
保健室の中から、のんびりした声が聞こえた。
「失礼します……」
剣奈が保健室のドアを開けた。白いカーテンとベッドが並び、その奥の机に、茶色の髪を一つに束ねた女性が座っていた。
「久志本さん、どうしたの?」
保健室の田島玲子が、顔を上てゆっくりと優し気に微笑んだ。
「ボク、お腹が痛くて……」
「どう痛いの?」
「お腹が…… きゅって」
「「きゅっ」ね。ここ?」
玲子は、指先でそっとみぞおちのあたりを指した。
「……もうちょっと下」
「ここ?」
「……はい」
「よし。じゃあ、とりあえず横になろうか」
剣奈は言われるまま、ベッドに横になった。天井の白さが目にまぶしかった。
「最近、朝になるとお腹痛いの、多くなってきた?」
「……はい」
「ごはん、食べられてる?」
「少しだけ……」
玲子はすぐには深くは聞くようなことはしなかった。何気ない会話。そして、「そっか」と短いうなずき。玲子は保温材をタオルで包んで剣奈のお腹に当てた。
「大丈夫よ。ここはね、逃げてくるところでいいから」
「逃げて、くるところ……?」
「教室で苦しくなったら、「セーブポイント」に来た、って思いなさい」
「セーブ、ポイント……」
「ほら、ランドセルにポラクエのストラップ付けてるでしょ。ああいうので出てくるやつ」
剣奈は思わず顔を上げる。
「……え?」
「昔、ちょっとやってた。今は子どもたちがやってるの見てる専門だけどね」
玲子が微笑みながら剣奈を見た。
「敵と戦う前に、ちゃんとセーブするでしょ? ここでちょっと休んで、また戻るかどうかは、そのとき決めればいいから」
「……教室に戻らなくても、いいんですか?」
「その日はね。毎日は困るけど」
玲子は、ふっと目を細めた。
「でも、転校してきてまだひと月ほどでしょ。お腹の「きゅっ」ぐらい、当然よ」
チクチクチクチク
保健室の時計の針が、静かに進んでいった。教室のざわめきは、ここまでは届かなかった。
(……ここ、ちょっとだけ、落ち着く)
胃の痛みはまだ残っていた。けれどさっきよりは、息がしやすくなっていた。そして休み時間が終わるころになった。
「どうする?このままここにいる?」
「……教室、戻ります」
「そっか。えらいね」
玲子は、何も言わずに頭を一度だけなでた。
「また痛くなったら、おいで。今日は二回までセーブしていいことにするから」
「二回まで……」
「ゲームだって、セーブデータ二つぐらい持てるでしょ?」
玲子の軽口に、剣奈の心がふっと軽くなった。
「ありがとうございました」
保健室を出るとき、剣奈は少し微笑んだ。そして教室へ戻る廊下の途中、窓から井の頭の森を見た。木々の葉っぱが、薄い光の中で揺れていた。
(玲奈姉…… ボク、ちょっとだけ逃げちゃった)
胸の中で小さくつぶやきながら、剣奈は教室のドアに手をかけた。教室の空気は、何も変わっていなかった。結衣たちの笑い声も、相沢たちの話し声も、そのままそこにあった。それでも、保健室と公園のベンチ、二つの「セーブポイント」。それは剣奈にとってささやかだけれども、それでも確かな救いの場所になった。
剣奈へのいじめは始まったばかりだった。けれど同時に、守ろうとする小さな手も、確かに動き始めていた。




