242 いじめのはじまり
九月初旬、まだ夏の光が、井の小の教室に差し込んでいた。
「じゃあ、この問題、やってみましょう」
算数の時間、黒板には分数のかけ算の式が並んでいた。
「できた人、手を挙げて」
担任の大橋由香里が言うと、何人かの手がゆっくり上がった。その中で、剣奈の右手は、ためらいなくすっと伸びていた。
「はい、久志本さん」
由香里に指名され、剣奈は前に出た。チョークを受け取ると、少しだけ深呼吸をした。
(四分の三かける二分の一、だから……)
剣奈は黒板にためらいなく式を書いていった。約分、かけ算、答え。白い線が、すらすらと並んだ。
「はい、よくできました」
「「「おー」」」
由香里がマニュアル通りのほめ言葉を言った。男子がほれぼれと小さく声を漏らした。そのとき、教室の後ろから、ひそひそ声が聞こえてきた。
「はい出たー、転校生の「できますアピ」」
「また一番に手挙げてたよね」
「男子に頭いいとこ見せたいんでしょ」
桜井結衣の声に、教科書で口元を隠した高瀬彩花の笑いが重なった。
「さすが「ボクっ娘美少女」」
「ラノベの主人公かよって感じー」
椎名真由が、わざとアニメっぽい声でささやく。森七海も(やば〜)と心でつぶやき、乗り遅れないように、必死に周囲の空気に合わせて笑った。
黒板の前で振り返った剣奈の耳に、その笑いははっきり届いていた。
(ボク…… なんか、変なことした?)
チョークを持つ指先が、ほんの少し震えた。
休み時間、廊下に出るとすぐ、背中から声が飛んできた。
「ねえさっきの、分数のやつマジおもしろかったんだけど」
振り向くと、結衣たち四人が並んでいた。笑ってはいるが、目はぜんぜん笑っていなかった。
「えっと……どこが、おもしろかったの?」
「だってさぁ」
結衣はわざとらしく肩をすくめた。
「転校してきてすぐなのに、一番に手挙げて、すごいですって顔で黒板出てってさ。「わたしできまーす」ってアピってるみたいで、あっ違った「ボク」だっけ?」
「「「あははは」」」
「男子、『すげー』とか言ってたしね」
彩花が、ちらっと相沢の方を見た。
「ね、相沢?」
急にふられて、相沢蒼真が一瞬固まった。
「あ、いや…… 別に。すげーなとは思ったけど」
「ほらね」
結衣はにやりと笑った。その笑みは、剣奈ではなく、彩花に向いていた。
(……やっぱり。あの子、男子にいい顔してる)
彩花の胸の奥に、ざらざらした塊が沈んでいった。
――――
体育の時間。五十メートル走の計測が始まり、剣奈の番になった。
「位置について、よーい……」
ピイィィ
笛の音と同時に、剣奈は地面を蹴った。バネの効いた躍動感あるスタートだった。スタートした瞬間、剣奈は風になった。流れる髪が美しくなびき、そのあとにはかすかにシャンプーの匂いが残った。
(あぁ、風が気持ちいい)
剣奈は同走の子供たちをあっというまに置き去りにしてゴールに駆け込んだ。
「一位、久志本。七秒七」
由香里の声が響いた。
「はやっ」
「マジかよ」
「すげー」
「綺麗」
「かわいい」
「いい匂いがする」
男子たちからどよめきが起こった。
「女子であれは反則だろ」
「てか、俺らよりはやくね?」
相沢が笑って言った。その笑顔を彩花は見逃さなかった。由香里はあまりにものタイムにストップウォッチの押し間違えだと思い、タイムに二重線を引き、「八秒七」に書き直した。その時、女子の声が響いた。
「はい。また「できますアピ」入りましたー」
スタートラインのそばで、結衣があきれたように言った。
「体育もできるとか、完璧ちゃんだねー」
「男子の前だけ、本気出してるんじゃない?」
「やだー、あざとーい」
「さすが養殖ちゃん」
彩花、七海、真由がすかさず続けた。真由は「絶好の動画チャンスだったのに」と小声で悔しがった。
つづく男女混合のバスケットゲーム。剣奈は何本もシュートを決めた。パスを受けて、するりと相手をかわし、どんどんボールをリングに沈めていった。
「「「ナイス!」」」
「すげー」
「かわいい」
「俺のボール奪ってほしい」
男子たちから歓声が上がった。
(たのしい……)
剣奈はワクワクしながらゴールを決め続けた。身体を動かすのが気持ちよかった。走るのがさわやかだった。ボールの音が心地よかった。剣奈は嬉しくてニコニコ笑みをこぼしていた。
しかし…… グラウンドのはずれから聞こえよがしの高い声が聞こえてきた。
「また決めてるよ」
「はいはい、「スポーツもできるわたし」入りましたー。あ、「ボク」だっけ」
「「「あははははは」」」
「男子、ほんとチョロいよね」
剣奈は笑い声の矛先が自分に向いていることが嫌でも分かった。さっきまでの楽しい気分が一瞬にして消え去った。
(ボク、おかしいのかな?)
夏の日差しの中、泣きそうな剣奈の姿があった。
パシン
「すげぇじゃん!」
「「「おお、まじすげえよ」」」
「放課後、俺らとバスケしようぜ」
「う、うん」
相沢の声に男子たちが剣奈に群がった。涙ぐんでいた剣奈がにこりと笑顔になった。周りの男子たちが一斉に顔を赤らめた。その様子を彩花はすごい目つきで睨んでいた。
「ちっ、あざと女め」
「え?」
つぶやかれた声に驚いた声の方に剣奈が振り返った。そこには誰もいなかった。校舎の影、太陽の光の届かないその場所。ひんやりとした空気だけが残っていた。剣奈は不思議そうに首を傾けるだけだった。




