240 井の小初日 それぞれの受け取り方
八月二十九日、井の小への剣奈の転入の日である。その日のことを、クラスの子どもたちはそれぞれ、違う形で受け取っていた。
「わ、わた、ぼ、ボク、久志本剣奈です。よろしくお願いします」
剣奈の一言で、教室の空気がはじけた。
「ボクっ娘美少女きたー!」
相沢蒼真が叫んだ。そして男子の席からどっと歓声がわいた。
(マジかよ。ほんとに「ボク」って言った)
(やっべ、めっちゃかわいい……)
(ラノベかアニメかよ。ボクっ娘っているんだ…… てか、これ夢じゃないよな)
男子たちの頭の中は一瞬で騒がしくなった。相沢は、窓から入る風に揺れた剣奈の髪を見て(やべ、好きかも)とときめいた。彼は一瞬にして心を持っていかれたのである。この時、本人はまだその自覚を持たない。高瀬はそんな相沢を見て目を細めた。相沢はそのことにまるで気付かない。
(足も速そうだし、今度リレー一緒に走れたらいいな)
相沢はぼんやりと運動会のことを考えてニヤニヤしていた。
黒川悠斗は興奮していた。
(「ボク」って言った。絶対ゲーム好きなタイプだろ、これ)
黒川は、剣奈のランドセルのキーホルダーに付いた小さなポラクエのストラップを見逃さなかった。
(あれ、ゲームのグッズじゃん。マジか。同士じゃん)
黒川の胸の中に「話したいことリスト」が一気に増えていった。
長谷川律は、黒板をじっと見ていた。
(字、かわいい)
自己紹介で名前を書くとき、剣奈は「久志本剣奈」と丁寧に書いた。その線の細さとバランスが、律には妙に印象に残った。
(あの顔で「ボク」って言うの、ずるい。でも…… なんか、似合ってる)
男子たちの「ボクっ娘美少女きたー!」という叫びは、単なる冷やかしと興奮と、本気のときめきが全部混じっていた。
一方、そのざわめきを聞いていた女子たちの胸の中は、まったく違っていた。
「ボクっ娘ってさぁ……」
「言い直してるしw」
「絶対キャラ作ってるよね」
「男子、ちょろ」
桜井結衣は、あごを少し上げて剣奈を値踏みするように見ていた。
(転校生で、あの顔で、「ボク」? しかも男子があの反応?)
結衣の胸の奥が、ちりちりと焼けた。
(やり方、わかってるじゃん。ああいう「わざと天然」系、いちばん嫌い)
結衣は、自分でも気づかないまま、「嫌い」のラベルを心の中で剣奈に貼りつけた。
「ねえ、彩花。今の見た?」
「見た」
高瀬彩花は、教科書に視線を落としたまま、口の端だけで笑った。心の中のざわめきを必死で抑えながら。
(ボク、だって。あれで「間違えました〜」みたいな顔するんでしょ?あざと。私の相沢くんなのにじっとあんな養殖女見つめちゃってさ)
彩花はちらりと結衣の横顔を見た。
(結衣ちゃんの方がずっとかわいいよ。なによあの空気。ちゃんと上下関係わからせないとね。結衣ちゃんならきっとそうするよね)
彩花は、そう思った瞬間、ふっと心が軽くなった。
(うん、大丈夫。わたしは「分かってる側」だもん)
森七海は、そんな二人の間で、空気を読むことに必死だった。
(どうしよう。かわいいと思ったらダメなやつかな)
男子の「かわいい!」という声には、正直うなずきたかった。
(でも、ここで「かわいいよね」って言ったら、なんか変な空気になりそう)
七海は、笑っているふりをしながら、一生懸命まわりの友達の気持ちを読み間違えないよう、自分の気持ちにふたをした。
「うけるよねー、ボクって」
椎名真由は、スマホをいじる癖が出そうになる手を、ぐっとこらえながらささやいた。
(撮っちゃダメかな、今の顔。絶対映える)
真由は思わずぐるりと教室を見回わした。
(男子たちのテンションも、今日のネタだなぁ)
真由にとって、「転校生×ボクっ娘×美少女×ざわめく男子」は、絶好の「盛れる話題」だった。そしてまた友人たちの顔色を読みながら、これから起こるだろうことをニヤニヤしながら想像していた。
そんな中で、また別の受け取り方をしている女子もいた。志村紗季である。
(「ボク」って言ってもいいじゃん……)
紗季は、きゅっと唇をかんだ。
(あんな顔で「ボク」なんか言ったら、そりゃ男子は騒ぐよ。でもそれって、悪いことなの?)
黒板に剣奈が書いた「剣」の字がまだうっすら残っているのを、紗季は見ていた。
(あの剣、ゲームのアイコンっぽかった。……話してみたいな)
でも、声にはしなかった。今ここで「かわいかった」などと言う恐ろしい発言をしようものなら…… 彼女はクラスカーストをしっかりわきまえていたのである。
前の列の真ん中あたりで、本田真帆は、半分だけ笑っていた。軽いあきれと、ほんの少しの羨ましさが混じった笑いだった。
(男子、ほんとわかりやすい……)
(でも、「ボク」って言ったときの顔、別にぶりっこじゃなかったよね)
真帆は、剣奈のほおが真っ赤になって、目が泳いでいたのを思い出した。
(あれ、多分ガチでテンパってただけだ)
真帆は結衣たちの方をちらりと見た。汚物を見るような目で剣奈を睨みつけ、何かを囁き合っていた。
(あー、これ、あの子、標的になるやつだ……)
真帆は「助ける」勇気は持っていなかった。ただ、彼女の胸のなかに小さなざわめきが生まれていた。
担任の大橋由香里はクラス全体を見渡しながら、心の中でため息をついていた。
(はー、また、めんどくさそうな子が来たわねぇ)
しかし表情は柔らかい笑顔のままだった。
(男子はすぐ盛り上がるし、女子はすぐ空気が悪くなる。……でも、まあ、よくあることでしょ。たとえ「いじり」が起きたとしても女子同士、よくあることだものね)
朝の会を進めながら、由香里は心で計算していた。
(変に首を突っ込んだら、親がうるさい。表立って問題にならなきゃ、それでいいわ)
彼女のこの思惑が今後剣奈を地獄に突き落とし、国家規模の大騒動になってしまう。しかしこの時点でそれを予想できたものは誰一人いなかった。
窓の外では、井の頭の森が揺れていた。淡い陽光の中、葉っぱがきらきらときらめいていた。
(玲奈姉、ボク、ちゃんとやるよ。頑張るよ)
剣奈は胸の中で、その思いを強くかみしめていた。彼女はクラスのみんながどんな顔で自分を見ていたのか気づいていなかった。男子たちが「ゲームの話をしたい」と目を輝かせていることも。女子の上位カーストが、もうすでに「嫌い」のラベルを貼っていることも。「かわいかったよ」と言いかけて飲み込んだ女子がいることも。
ヒュウ
窓から入り込んだ風が、剣奈の髪を揺らした。
(……大丈夫。ボク、ちゃんとやれる)
そう自分に言い聞かせた彼女の「ボク」が、これから何度も心の中で揺さぶられることになる。しかし、このときの剣奈は、まさかそんな事態が振りかかろうとは、全く思っていなかったのである。




