239 剣奈 井の小へ 絶世の美少女が来た!
八月二十九日、剣奈が吉祥寺井の頭小学校(井の小)に転校する日が来た。
「剣奈、今日から新しい学校よ?心の準備できた?」
「ボク、女の子にならなきゃダメ?」
「ならなきゃ、というより、もうなってるのよ?来くんが隠し部屋に行っても、剣奈、女の子のままじゃない」
「そ、そうだけどぉ」
千剣破はほっとしていた。ギリギリ間に合ったのだ。宝塚から東京への移動で、来国光が隠し部屋に行ったとき、千剣破は注意深く剣奈の身体を観察していた。抱き上げるふりをしてそっと股間にも手をやった。千剣破は驚愕した。来国光が隠し部屋に行っても剣奈の身体は完全な女性のままだったのである。
千剣破の考えによると、剣奈の身体は徐々に男性から女性に置き換わっていくというものだった。来国光が現世に顕現しているときは、剣奈の身体は剣気を受け入れるため、一時的に完全に女性の身体になるが、来国光の顕現が終わると、剣奈は男性の身体に戻る。それが千剣破の理解だった。それが来国光がいなくとも完全に女性の身体だったのである。ということは、剣奈の身体は完全に朽ちてしまったことになる。身体が朽ちるということを剣奈に気づかせず、静かに男から女へ移行させることが出来たのだ。千剣破はそっと息を吐いた。
「往生際が悪いわよ?来くんとともに生きるため、女の子になるのを選んだんでしょ?なら覚悟を決めないと。男のらしくないわよ?」
千剣破、都合よく剣奈の心の「男心」をくすぐっている。
「そ、そうだけどぉ」
「まあ習うより、慣れろっていうものね。剣奈、女の子に慣れなさい。はじめは不器用でもいいから」
「ちぇ。他人事だと思ってぇ。はぁい」
剣奈はぷぅっとほっぺたを膨らませて服を着替えた。スカートはまだ抵抗があったのでズボンをはいた。ほっぺたを膨らませてブラウスとズボンをはいた剣奈は…… どこからみても絶世の美少女だった…… 気づいていないのはこの世の中で剣奈ただ一人だけである。
八月も終わりの朝。井の頭公園に響く蝉の声は小さくなっていた。気温はまだ温かかったが、どこかほんのりと空気に秋の匂いが混じっていた。井の小への道すがら、井の頭公園の林を歩きながら、千剣破は剣奈の手をしっかりと握っていた。ブラウスのリボンがふんわり結ばれていた。ブラウンのランドセルに光が反射してきらりと輝いた。
「緊張してる?」
「うん。でも、大丈夫。玲奈姉の分まで、頑張る」
剣奈は小さく笑ってみせた。その笑みの奥には、とまどいと、不安と、そしてそれらを乗り越えようとする決意があった。やがて井の小の建物が見えてきた。剣奈たちは校門をくぐると、子どもたちが好奇心に満ちた視線を向けてきた。
「転校生だ」
「かわいい」
「むっちゃ美少女」
「何年生だろう」
子どもたちのささやく声が聞こえてきた。剣奈は恥ずかしそうにうつむいていた。その羞恥の姿がいっそう彼女を美しく見せた。剣奈にその自覚はない。
職員玄関の前で、担任の女教師が立っていた。
「久志本剣奈さんね。今日からよろしくお願いします」
柔らかな声でそう言われ、剣奈は深く頷いた。
担任は大橋由香里、三十八歳独身である。多摩で生まれ、大学卒業後、東京都に採用され、以来ずっと都内の公立小に勤務している。経験年数は長いが、さまざまなトラブルにより、仕事への情熱はすっかり冷めきっていた。今の彼女は、「波風を立てないこと」を最優先にしている。彼女は授業や行事の段取りはそつなくこなすが、トラブル対応や保護者クレームを極端に恐れている。そのため、「問題」が起きても表面化させないことに気を配っていた。
彼女の子どもに向ける言葉は柔らかいが、本心では「今どきの親はうるさい」「少しぐらいのからかいは子ども同士で解決すべき」と考えており、教室内のいざこざからは距離を置き、深く踏み込まないようにしていた。転校生や発達特性のある子に対しても、「特別扱いすると他の子や親がうるさい」と距離を取りがちであった。
生徒に表面上は優しく接するが、いじめや冷たい空気には気づきながら「証拠がない」「大事にしたくない」と見て見ぬふりを選ぶタイプの教師である。心のどこかで理想と現実のギャップに気づきながらも、向き合うのを避けていた。
彼女は表向きは優しく、物腰柔らかである。そのため、千剣破は、この先生なら大丈夫と安心した。後にこの考えが誤りであったと千剣破は唇をかむことになる。
由香里が剣奈を連れて教室に向かった。千剣破はうまくいきそうな様子にホッとしたような、心配そうな笑顔でそれを見送った。
秋の風が吹いていた。校庭のまだ夏の名残を残す青々とした木々の葉が揺れていた。
がらり
由香里が教室のドアを開けて教壇に立った。転校生を見た教室の雰囲気が一瞬静まった。
「久志本さんです。久志本さん、自己紹介なさい?」
「は、はい!」
剣奈は黒板に自分の名前を書き、みんなに向かって深く頭を下げた。そして、
「わ、わた、ぼ、ボク、久志本剣奈です。よろしくお願いします」
剣奈は千剣破から「ボク」はやめなさいと注意を受けていた。しかし完全にてんぱってしまってどうしても「わたし」が出てこなかった。そこでつい言いやすい「ボク」を言ってしまったのである。そして……
「ボクっ娘美少女きたー」
教室の静寂が破られた。男子たちが歓声を上げた。女子たちはそんな男子を見て、また、美少女でキャラづくりをしているように見える剣奈にあざとさを感じ、嫌悪感を持った。
窓の外に井の頭の森が見えた。淡い陽光の中で、木々の葉がきらきら揺れていた。剣奈はその光を見つめながら、病棟で眠る玲奈に心の中で語りかけた。
(玲奈姉、ボク、ちゃんとやるよ。頑張るよ)
ヒュウ
窓から風が吹いた。風が剣奈の髪を揺らし、頬を撫でた。風に揺れる絶世の美少女。どこか凛とした眼差し。教室の男子たちは一瞬にして転校生に心を奪われていた。
【第十三章 完】




