237 玲奈の入院 入院費に驚愕する千剣破
八月二十八日、千剣破と藤倉は車いすに乗せた玲奈を連れて三鷹の桃林大学病院を訪れた。剣奈、玉藻、白蛇も同行している。その日は蒸し暑さの残る朝だった。空はどこかぼんやりと白くかすんでいた。剣奈は病院近くに父が入寮していた龍岡門大学三鷹寮があることを知っていた。剣奈はバスに乗りながらぼんやりと父のことを思い出していた。
桃林大学病院の正面玄関に到着した。千剣破は先頭で剣奈の手を握って自動ドアを開けた。藤倉は玲奈を乗せた車いすを押していた。剣奈は振り返りながら玲奈の顔を心配そうに見ていた。剣奈のリュックには白蛇が入っていた。玉藻は最後尾でみんなを見守っていた。
自動ドアが開くと、冷房の冷たい空気と消毒薬の匂いがふっと鼻を衝いた。受付カウンターの奥には「入退院受付」と書かれたプレートが下がっていた。剣破は封筒にまとめた保険証、印鑑を取り出し、落ち着いた声で告げた。
「久志本玲奈の入院で参りました。内閣府の佐伯様の紹介です。桃林大学病院神経内科宛で連絡がはいっていると思います」
「はい、お預かりします。こちらの問診票と入院申込書にご記入をお願いいたします」
書類を受け取った千剣破は書類を確認し、住所、連絡先、続柄、保険者番号などのを記入していった。藤倉は保証人の欄に自分の名前を書き込んだ。藤倉は署名の時、手がわずかに震えた。彼はボールペンの先が紙を押し破りそうになるのを、意識して抑えた。
剣奈はその様子を心細げに見上げていた。玉藻はそっと、玲奈の顔色をうかがいながら、彼女の呼吸の小さな呼吸音を聞いていた。白蛇はリュックの中で小さくとぐろを巻きながら、周囲の気配を探っていた。
「では、神経内科外来にご案内します。車いすはこちらでお預かりしますね」
看護師が丁寧に頭を下げ、玲奈の車いすをそっと押し始めた。エレベーターに乗り込むと、表示パネルの数字が静かに上がっていった。病棟四階、神経内科外来のフロアには、静寂の中、看護師たちがてきぱきと働いていた。時折、電子カルテ端末の操作音が聞こえてきた。一行は、診察室前のソファに一行が腰を下ろすと、ほどなくしてドアが開いた。
「久志本玲奈さん、どうぞ」
診察室の中には、白衣を着た神経内科医と、電子カルテ端末、その横に脳波検査やMRIの画像が投影されたモニターが並んでいた。玲奈はベッドに移され、医師がバイタルを確認した。血圧計が静かに腕を締め付け、心電図の波形がモニター上にあらわれていた。
「呼吸は自発呼吸。循環も安定しています。刺激への反応は乏しいですね」
医師は皮膚を軽くつねり、瞼を持ち上げて瞳孔の反応を確認した。ペンライトの光が玲奈の黒目に差し込み、医師は反応を見ていた。
「集中治療室での精査は終えています。脳出血や梗塞、外傷性変化は画像上認められません。代謝性、薬剤性の異常も現時点では否定的です」
医師はモニターに映るMRIとCTの画像を示しながら、淡々と説明を続けた。
「現時点での診断名としては、「低覚醒状態/原因不明の意識障害」となります。医学的には「明確な病巣、組織の破壊」が見つからない。にもかかわらず、目を覚まさない、という症例になります」
千剣破はわずかに眉をひそめ、黙って聞いていた。藤倉はかすかな声で聴いた。
「回復の見込みは、あるんでしょうか」
医師は言葉を選ぶように沈黙し、それから慎重に答えた。
「脳の器質的な損傷が見られないという点では、希望があると言えます。ですが、覚醒に必要なネットワークのどこかで、機能レベルの障害が起きている可能性があります。時間経過とともに、自然覚醒を待つしかないかもしれません」
医師はカルテを閉じ、千剣破たちに向き直った。
「入院についてですが…… 原因不明の低覚醒状態の場合、患者さんの脳と身体が一分一秒でも安静で、ストレスの少ない環境にいることが、回復の可能性を少しでも高めると考えています。モニタリングとケアの観点からも、個室での入院をお勧めします」
(個室…… 剣奈の命の恩人の玲奈には精一杯のことをしてあげたい。でも、私だけの稼ぎではお金が厳しい)
千剣破は小さく息を吸い込み、尋ねた。
「共同病室では…… 難しいでしょうか」
久志本千剣破、行政書士、年収は五百万円台である。千剣破一人ではとても払える金額ではなかった。玲奈は千剣破が覚悟をもって育てるとして養子にした義娘である。また、剣奈の命の恩人である。出来るだけのことはしてあげたかった。しかし、個室での入院となると、下手をすると月に百万円ほども必要となる。千剣破の月収はひと月三十数万円である。貯金を切り崩したとしても、とても長くは払える金額ではなかったのである。
千剣破は下唇をそっと噛みしめながら医師の返答を待った。




