238 藤倉 男を見せる
医師は千剣破からの共同病室という提案を受け、医師の立場から静かに返答した。
「共同病室で予後を見る。不可能ではありません。ただ、共同病室では、騒音や他患者さんの出入り、夜間のケアなどで刺激が多くなるのは事実です。玲奈さんの場合、「外からは見えないレベルの脳機能の乱れ」が疑われますので、環境負荷は極力減らしたいところです。そのため、個室管理を前提に考えさせてください」
「……わかりました。個室でお願いします」
藤倉が静かに口を開いた。
「費用については、私も負担します。どうか最善の環境を整えてください」
医師はうなずき、入院形態を端末に入力していった。
「診察は以上になります」
診察室を出た一行は五階、内科系病棟に案内された。廊下は静かで、足音がやけに大きく響いた。ナースステーションの横には、重症度の高い意識障害患者のための個室群が並んでおり、その一つのドアに新しいネームプレートが差し込まれた。
「こちらのお部屋になります」
部屋に入ると、窓から柔らかな光が差し込み、真新しいリネンをかけたベッド、心電図・血圧・酸素飽和度をモニターする機械、点滴スタンドがきちんと並んでいた。玲奈は看護師二人がかりで慎重にベッドへ移され、毛布がそっと肩まで掛けられた。
「点滴を開始しますね。基本的にはこのモニターで状態を見ながら、必要に応じて検査やリハビリ科の評価も入れていきます」
玲奈の細い腕に点滴の針が刺され、テープで止められた。点滴のコックが開けられ、透明な輸液が静かに滴り始めた。ベッド横では、心電図が一定のリズムを刻み、小さな電子音が規則正しい間隔で鳴っていた。医師と主任看護師は、玲奈の様子を一瞥すると、千剣破と藤倉、剣奈、玉藻に向き直った。
「できる限りの検査は行いましたが、なぜ目を覚まさないかは、まだ説明がつきません。ただ、呼吸も循環も安定していますし、身体としての生きる力は損なわれていません。時間と、環境と、ご家族の声かけが大切です」
千剣破は説明を聞きながら小さく頭を下げた。
「こちらの病院で、どれくらい診ていただけるんでしょうか」
「長期の入院も想定しています。状態が急変した場合はICUやHCUでの集中的管理に切り替えますが、今の段階ではこの個室で経過を見させてください。面会時間内であれば、できるだけ話しかけてあげてください。意識がどれだけ届いているかは分かりませんが、「刺激」として、確かに意味があります」
「ボク、出来るだけ来るよ」
剣奈が思わず叫んだ。剣奈は、ベッドに横たわる玲奈の手をそっと掴んだ。玲奈の指先に、確かな体温が感じられた。
「……玲奈姉。ボク、また来るからね」
剣奈が玲奈に声をかけた。医師と看護師が静かに微笑んだ。
「お姉さん、きっと聞いてますよ。たくさん話してあげてくださいね」
こうして、玲奈の入院が始まった。医学的に説明不能な診断名とともに。部屋には静かな電子音が響いていた。この先、半年以上、玲奈は眠り続けることになった。医療費の総額は一千万円近くにも達することになる。この時、一行はまだそのことに気づいていない。いや、気づいていたとしても、歯を食いしばってなんとか払っただろう。
藤倉忠恭、国立大学教授、年収およそ一千万円。藤倉は独身であり、無駄遣いはしてこなかったので貯金もそこそこあった。何より玲奈は藤倉にとって、はじめての「女」なのである。五十路童貞を卒業させてくれた玲奈である。いずれは嫁にもらう覚悟である。藤倉は静かに口を開いた。
「玲奈は私の恋人です。また、私の不手際によりこのような事態になりました。入院費は私が全額支払いたいと思います」
藤倉が言った。願ってもない藤倉の提案である。しかし責任をもって育て上げるとの決意、娘の恩人、この二つの考えが彼女を頑固にした。藤倉の好意に全面的に甘えるわけにはいかなかった。
「ありがとうございます。先生。ですが、お気持ちだけいただいておきます。玲奈は私の義娘です。剣奈の恩人でもあります。私が全額出します」
藤倉は千剣破をじっと見つめ、静かに言った。
「久志本さん、君の気質はよく知っている。責任感もよく知っている。しかしここは意地を張るところじゃない。なにより、玲奈は俺の恋人でもある。玲奈が目覚めたとき、俺にかっこつけさせてもらっていいかな?俺が六割、久志本さんが四割。これがギリギリ俺が出来る譲歩かな。嫌だというなら、無理やり全額出す」
「先生……」
正直なところ、四割でも長くは無理である。その現実を千剣破も、そして藤倉もわかっていた。千剣破は深く藤倉に頭を下げ、藤倉の提案を受け入れた。
そして、実際の運用では藤倉が二ヶ月払い、その後、千剣破が一ヶ月払うというサイクルになった。千剣破が差額を払うと申し出たのだが、計算がややこしいと藤倉が頑として言い張ったのである。思いあまった千剣破が提案した。
「婚姻されたなら宝梅の久志本家で生活してください」
「それは素敵ですね」
藤倉は笑ってそれを受け入れた。




