ライラック 6
私は韓国人の小説家です。
2年前に出版した自分の小説を日本語に翻訳し、こちらで連載することにしました。
不自然なところがあったりするかもしれませんが、楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。
ありがとうございます。
※「ライラック 6 」は私の大好きなチャプターのひとつです!
いつだったか、母に絵を依頼した一人の視覚障害者がいた。
明暗くらいなら見分けられる一般的な視覚障害者とは違い、その女はまったく目が見えなかった。
僕たちは薄暗いリビングにいて、母はアトリエにいた。
僕は頬杖をつき、向かいに座る女をじっくりと頭からつま先まで観察した。
碁盤の目のようなチェックの上着とスカートが体にぴったりだった。小さな顔と青白い肌、赤黒い唇。つばの広い帽子を斜めにかぶった姿。
高価なアンティーク人形のようだった。
女は一度も瞬きをしなかった。
膝の上には3、4回折り畳まれた白い杖が置かれていた。
慎ましく座るその姿は、どこかぎこちなく、不自然だった。
暗闇の向こうをじっと見つめていたので、僕もつられてそちらを見た。
5歳の子供がいくら顔を動かしたところで音がするはずもない。
けれど、女はその音を確かに聞き取っていた。
僕がもう一度顔を向けると、女はまっすぐ僕のほうを見ていた。
僕はぎょっとして、思わず心の中にあった疑問を口にしてしまった。
「視覚障害者も夢を見るんですか?」
女はにっこりと笑った。
出会ってから別れるまで、僕には女が何を考えているのかさっぱりわからなかったけれど、女は僕のことを何もかも見透かしていた。
僕の顔も、心の中も、性格も。
もしかすると、過去も未来も。
こだまするようなその声は、わざわざこの薄気味悪い階段で思い出さなくても、いつだって背筋が寒くなる。
「もちろん。見るわよ」
「どんな夢なんですか?」
「健常者と同じ夢よ。いいえ、もっと色とりどりの夢かもしれない。明晰夢って知ってる?」
「はい。現実に変わる夢です」
女は一瞬、動きを止めた。
そして、僕のほうへもう少し体を向けた。
「ほかの視覚障害者は知らないけれど、私は毎日明晰夢を見るの。生まれたときから真っ暗な世界に慣れているからなのか、美しい世界が見えたらすぐに夢だってわかるのよ」
「じゃあ、夢の中では何をするんですか?」
「記憶」
「記憶?」
「そう、記憶」
「何を記憶するんですか?」
「目に見えるものを、すべて記憶するの。明晰夢は現実に変わる夢だって言ったわよね?そう。私には夢が一つしかないから」
女はそっと目を閉じた。
すぐに夢へ辿り着いた。
たった一つの夢。
女が囁いた。
「夢のようだったあの日、あの男と見たすべての色を記憶するの」
色!
この人も、空っぽの感覚を色で埋めているんだ!
僕は身を乗り出した。
その夢が気になった。
「毎晩、眠りにつくと、その夢が私の前に広がるの。退屈な暗闇が流れ落ちて、色とりどりの明晰夢が姿を現す。
色は全部違うの。あの人と一緒に描いた世界みたいに。
人々はそれぞれ忙しそうに歩き回って、通りには街灯の明かりが横たわっている。頭の上には太陽が浮かび、雲が空を這い回って、そのまた上の夜空では月と星がきらめいている。山は紅葉と雪を半分ずつ身にまとい、その上には雨が降っている。
私は一歩下がって、いつ夢から覚めるのかと落ち着かない気持ちになりながら、色を一つ一つ記憶しようと努める。どれ一つ、ただ見過ごすことはない。
記憶しなくちゃいけないから。また暗闇の中で目を覚ますことになるから。
よく、視覚や嗅覚を失うと他の感覚がそれを補うっていうでしょう?
でも、どうかしら。
ある程度は正しいけれど、すべてを埋めることなんてできない。
むしろ、空っぽの感覚を埋めるものは――記憶なの」
女は薄暗いリビングへ戻り、さっきまで見つめていた方向へ体を向けた。
僕もつられてそちらを見た。
「じゃあ、母さんに絵を依頼した理由は、記憶のためなんですか?」
女は頷いた。
女が依頼した絵は、今でも僕の頭の中に残っている。
背が高く、肩にかかるくらいの髪の長さの男と、腰まで髪を伸ばした痩せた少女が手をつないでいる。
背景は黒だった。
どこかへ歩いていく。
男はもう片方の手で上を指し、女は杖を筆のように握ったまま、それより少し下を指している。
一見すると平凡に見えるその絵に、女が特別に注文したのは、男を塗るとき、できるだけたくさんの絵の具を使ってほしいということだった。
ひと目で高価だとわかる絵の具を送ってきたこともあった。
母は何日ものあいだ、男の色を考え続けた。
そのせいで仕上げはかなり遅れたけれど、女は完成さえすれば、時間はいくらかかっても構わないと言った。
「あの人は、夢に出てきてくれないから」
女が言った。
「うん、私はそう思う。色に魅了されすぎて、誰かが後ろにいることに気づかないの。夢が終わる頃になってようやく気づくのに、また忘れてしまう。それでも毎日毎日、意味のない決意を繰り返して、泣いて、また暗闇の中で夜を待つ。
あの人は、そんな私の姿を見るのを楽しんでいるみたい。正面から私を見てくれたらいいのに……
でも、実はわかってる。
ほんの束の間でも、この世のすべての色を見せてくれたあの人は、絶対に私の前には現れない。
夢のようだったあの日でさえ、一人だけ真っ黒だったあの男は、その気になれば、色とりどりの世界を背にして私を見下ろすことも、抱きしめることも、口づけすることもできる。
なのに、そうしないの」
「でも、母さんはその人のことを知らないですよね。それなのに、どうして母さんに頼むんですか?」
女はためらった。
膝を見下ろし、しばらく口を開かなかった。
杖についた鈴が、チリンと鳴った。
僕はふと気になった。
どっちのほうが暗いんだろう?
目を開けたとき?
それとも、閉じたとき?
「初めてあなたのお母さんに会ったとき、私と似た人だと思ったの」
女はゆっくりと言葉を続けた。
「空っぽの感覚を埋めるのは、他の感覚じゃなく、記憶なんだってことは、障害者も健常者もあまり知らない。でも、あなたのお母さんは知ってる。
だから、切なくて、悲しい。
それは、知ってはいけないことだから。
画家も私を見て、きっと同じように感じたはずよ」
女は折り畳まれていた白い杖を、投げ捨てるような勢いで伸ばした。
両手を重ね、ぼんやりと立ち尽くした。
「私は欲張ることにしたの。
私と似ている画家が、あの男を描いたらどうなるんだろうって。
その絵を枕元に掛けて夢を見れば、もしかしたら、あの男が夢に出てきてくれるんじゃないかって」
女はまっすぐ僕を見た。
「うん、きっとそうなる」
女が言った。
母がリビングへ出てきた。
その手には、真っ黒な少女と色とりどりの男がいた。
記憶。
僕はずっと、死が僕の空っぽの感覚を満たしているのだと思っていた。
白い匂い。白い死。
『あなたは私たちとは違うことを望んでいるだろうけど、たぶん……』
視覚障害者は、帰る直前になんて言っていたっけ?
階段を漂い、扉を開けるその瞬間まで、こだまのような女の声をそのままにしておいた。
やがて扉を開けたとき、
死が僕に襲いかかったとき、
僕が入っていく場所がブックカフェなのか、それとも空っぽの感覚なのかはわからない。
けれど、これだけは確かだった。
鼻の奥深くと、両目の間。
頭の中。
いや、記憶……
遥か遠くのどこかから、ほんの少しだけ、薔薇の香りが漂ってきた。
あえて言うなら、一輪分くらい。
空っぽの感覚を満たしてくれる、記憶だった。
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