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匂いの色  作者: ゆず
第1章 ライラック
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6/22

ライラック 5

私は韓国人の小説家です。

2年前に出版した自分の小説を日本語に翻訳し、こちらで連載することにしました。

不自然なところがあったりするかもしれませんが、楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。

ありがとうございます。

「食べないで何してるの?」


 視線を前に戻した。


「何?」


 四方が煌びやかに輝く高級レストランで、向かいに座った男が言った。


 ジェヒョクは、ついさっきまで僕が見ていたほうへ視線を走らせると嘲るような口調で言った。


「また死神ごっこ?」


 僕は顔をしかめた。いつも無頓着な顔をしているこの男は、微動だにしなかった。


 実は、この店の中にほのかに漂う匂いの出どころを目で追っていた。


 一か所に長く座っていたり、立っていたりすると、よくそうしていた。


 たいてい3、4人が僕の気を引いた。男より女、老人より子供だった。


 病院や漢江のそばを通ると、20人あまりが匂いを漂わせている。毎回振り返るわけではないが、今みたいに心の中で数を数える。


 このレストランに来たのは、意気揚々と漢江へ行って戻ってきたばかりだった。


 22人。


 僕は呟いた。


「なくなるわけはないか……」


「何て?」


「何でもない」


「ここ、めちゃくちゃ高い店なんだけど?」


 ジェヒョクは付け合わせのグリーンピースをぶすりと刺した。


「残すな」


 僕は深いため息をつき、皿を見下ろした。


 手のひらほどの肉の塊の上で、緑色の木切れが危なっかしくバランスを取っていた。その横では、ふんわりと盛られたジャガイモの塊が黒く固まっていった。


「何か忘れてない?」


「何を?」


「俺が匂いを嗅げないってこと」


「どうやったら忘れられるんだよ。おまけに味まで感じられないじゃん。かわいそうに」


 僕は静かによそ見をした。


 隅に座っていたカップルが、ベルを鳴らして店を出ていった。ほどなくして匂いが消えた。


 男も女も、顔にはまだ幼さが残っていた。



 どっちだ?



「なんでこれを俺に奢るんだよ」


「さっき言っただろ!」


 何事にも無頓着なジェヒョクは、自分の彼女が昇進したという理由で僕に夕食を奢っている。


「だから、いったいなんで?」


 ジェヒョクはそんな質問を軽く無視して、メニューを僕の前に突き出した。


 一瞬、愕然とした。


 一週間かけて英単語を何千個も翻訳して、ようやく稼げる金額がずらりと並んでいた。


 普段はケチなこいつが、時折どうしてこんなふうに意地を張るのか、さっぱりわからない。


『これは絶対復讐だ』


 僕には、ジェヒョクに隠している秘密が、二つあった。



 普通の匂いを嗅げない。

 特別な匂いを嗅げる。



 一つは出会って半年後に、もう一つはそれから約2年が経ってから打ち明けた。



 僕たちが仲良くなったきっかけは、体罰から生まれた戦友愛だった。


 新学期の初日、凶暴だと悪名高い担任を前にして、机に突っ伏して眠っていたのは二人だけだった。


 名前を呼ばれ、寝ぼけ眼で真っ先に目に入ったのは長い棒だった。


 あだ名がピノキオだった担任は、その武器で僕たちの太ももを交互にひっぱたき、そのまま冷たい廊下へ追い出した。


 その後、クラスメートたちの返事の声は、恐怖の響きへと変わった。


 その悲鳴を背に、僕たちはずいぶん話をしたけれど、その頃の僕はまだ秘密を話さなかった。


 一つ目の秘密が引き起こした小さな騒ぎが二度の転校につながり、今回はとうとう別の地域にまで来たことで、どんな秘密も話さないと――つまり、普通の人間のふりをして生きていくと決めていたからだ。

 半年後、僕が秘密を打ち明けると、ジェヒョクは平然と言った。


「そう? じゃあ、これから食うものは俺が決めていい?」


 僕は頷いた。


 それだけだった。


 ところが、1年も経たないうちに、そのことを後悔した。


 ジェヒョクが無理やり僕をあちこちへ連れ回すようになったからだ。自分で金を稼げるようになった20歳以降は、高い店にも時々行った。文句を言っても無駄だった。


「それはお前がそう思ってるだけだろ。持ち主に恵まれなかったお前の体のためにも、うまいもの食わせてやらないと。それと、味がわからないからって、何の効果もないってことじゃないだろ? 甘いもの食えば気分がよくなるし、辛いもの食えばストレスも発散できるし」


 僕は言い返せなかった。


 二つ目の秘密は、死に関係している。


 雪のように白い秘密。


 僕はその日、初めて人を救った。


 すると、ジェヒョクが僕の肩でむせび泣いた。



「やば、カード置いてきた」


 急いで食事を済ませ、ジェヒョクを近くのカフェまで引っ張ってきた。


 だが、いくらポケットを探っても無駄だった。


 キーボードに挟んだままのカードが、ふと頭をよぎった。


「とことんたかるつもりか」


 ジェヒョクが背後から近づいてきた。


「あんなに嫌そうな顔してたくせに、違ったんだ?」


 僕は黙ったまま空いている席を探しに行った。


 窓際に席を取り、夜空を見ているふりをした。


 コーヒー豆が挽かれる音が、逆さに流れる滝のように天井へ降り注ぎ、押し寄せてくる。


「暗褐色の波だなんて…… ほんと、汚いな。」


 なのに、ガラスに映った僕の口元には、かすかに笑みが浮かんでいた。


 僕はぎょっとして、顔から急いで笑みを消した。


「本、どうだった?」


 ジェヒョクが向かいに座りながら訊いた。


「つまらなかった」


「あの本は面白さを求めて読むもんじゃない。深遠な哲学なんだから」


「そういうことばっか言ってるから、生徒に嫌われるんだよ」


「何言ってんだよ? 担任人気ランキングで一位の人間に向かって」



『リスボンへの夜行列車』。



 ジェヒョクが子供の頃から、耳にタコができるほど何度も話していた本だった。


 あらすじは単純だった。


 自分だけの世界で一生を過ごしてきた老教授が、偶然、川に飛び込むために手すりに登った一人の女性を救う。しばらくして、何も言わずふらりと去っていった女性に導かれ、外の世界へ一歩踏み出すと、一冊の本が手に入る。そして、見知らぬ言葉を追っていた老教授はふいにリスボン行きの夜行列車へ乗り込み、本を読みながら手探りで著者の過去を遡っていく。


 医師が妹の首を刺す場面で、僕は本を閉じた。


 僕はもう一度、夜空を見上げた。


 ジェヒョクの話が、なかなか耳に入ってこなかった。


 飛行機の明かりのような点が、空からゆっくりと落ちていく。


 僕はその線をじっと見つめた。


「やっぱり、取りに行かないと」


「本を?」


「カードだよ、バカ」


「置いてきたって確か?」


「間違いない。翻訳料を国内の口座に振り込むからって、海外のエージェンシーに口座番号を聞かれたんだ。そのときカードを出した」


 ジェヒョクは首を傾げた。


 こんな遅い時間にわざわざカードを取りにそこまで行く必要があるのか、週末に金を使う予定でもあるのか、急ぎなら自分に借りればいいんじゃないかと聞いた。


 僕は適当に言葉を濁しながら、席を立った。


 実は、僕にもこれといった理由はわからなかった。


 ほんの束の間でも、匂いが消えた世界――結局、そうではなかったけれど――を目の当たりにしたからなのかもしれない。


 急いで出ようとすると、ジェヒョクが僕を呼び止めた。


「でもさ、それ知ってる?」


 僕は振り返った。


「老教授は結局、あの女に会えないんだ」


「は?」


 僕がにらみつけると、ジェヒョクは手を振った。


 僕は警告した。


「お前は匂いがしても、教えてやらないからな」



 エレベーターの扉が開いた。


 もうすぐ死ぬ人間なら、階段ではなくエレベーターを使うはずだということを、どうして予想できなかったのだろう?


 何もかも真っ白だった。


 暫しの間、死が留まっていた狭い空間の中で凝り固まった白い匂いが、扉が開くなり、僕を抱きしめ、砕け散り、染めた。


 僕は床にへたり込み、吐き気を催した。


 呻き声が、白く霞んだ廊下に響いた。


 とても、中へ入る気にはなれなかった。


 ここへ入って扉が閉まれば、永遠に開かないような気がした。


 僕が解き明かした、白い匂いの秘密の一つ。



 死因と、匂いの濃度は関係はない。



 8歳のとき、母が亡くなってから、祖母と6年間一緒に暮らした。


 葬儀を終え、祖母と真っ先にしたことは、健康診断を受けることだった。


 毎年、僕は祖母に手を引かれて病院へ行かなければならなかった。


 僕が文句を言うと、祖母は真剣な顔でこう言った。その言葉はのちに、二つある遺言のうちの一つになった。


『全部ソファのためなんだよ。健康診断を受けるのを絶対に忘れちゃだめだよ』


 初めて病院へ行ったときから――つまり、母の葬儀の翌日から始まった。


 検査が多いし、待ち時間も長かったため、僕たちは疲れ果てていた。


 祖母が隣でこくりこくりと舟を漕いでいた。


 今だと思い、僕は病院中を駆け回って、数え切れないほどの白い匂いを見た。


 窓の外を見つめる死。

 半分ほど赤く染まり、どこかへ運ばれていく死。

 光る車椅子に座った死。

 頭に包帯をぐるぐる巻いた死。

 僕より幼い死。


 母に比べれば、あまりにも薄い匂いたち。


 白い匂いは――死は、互いを押し退け、重なり合わない。


 だから集中治療室へこっそり入り込んだときも、僕は吐いたり、気を失ったりはしなかった。


 一握りの悪臭に鼻を塞ぎながら、追い出されるだけだった。


 僕はいつ、その意味に気づいたのだろう?


 また集中治療室へ入ったとき?

 祖母が隣で夢を見ていたとき?

 母が緑色の直線になったとき?


 いや、さらに過去へ遡った。


 白い匂いが家を飲み込んだある冬の日、僕は冷たいリビングの床に倒れていた。


 巨大な死が僕を抱き上げ、顔を撫でた。


 初めてだった、あれほど白い匂いを放つ存在は。


 温かな胸に抱かれ、ゆっくりと母に死を宣告したあの日、僕はぼんやりと悟った。


 この世のすべての死が絡み合ったとしても、母ほど強烈な匂いを放つことはできないのだと。


 だから僕は今、驚かずにはいられなかった。



 会社のビルは、深い眠りについていた。


 各階にずらりと並ぶ窓は固く閉ざされていた。


 隣のビルと違うところは、中から外へ向かって白く沸き立っていることだった。


 明かりがついているのは、二か所だけだった。


 ブックカフェと、ビルの入口。


 白い明かり。


 あんな照明は見たことがなかった。


 ブックカフェは3階の隅から、眠らない目で僕を見下ろしていた。


 入口は、煙草の煙を含んだ人のように、口を大きく開けていた。


 何かに取り憑かれたようにその中へ踏み入った瞬間、無意識にポケットから鍵を取り出し、ぎゅっと握りしめた。


 白く霞んだ霧が、ピンと耳を立てたような気がした。


 袖で鼻を覆い、いつも通っている廊下に沿って歩いた。白い匂いに触れる足首がひんやりしていた。


 奥へ進むほど、濃度が濃くなっていった。


 もぞもぞと近づいてくる白い塊を指で突くと、穴が開き、あっという間に塞がった。


「まったく、今度は目までおかしくなったのか?」


 胃がむかむかし始めた。


「いったい誰だ?これほど濃い匂いは、確かに母からしか……」


 永遠のように続く廊下を、ずいぶん歩いた。


 何にも触れなかった。


 向きを変え、壁を手探りしてみた。


 やがて小さな明かりがつき、鈍い音とともにエレベーターが下り始めた。


 下まで来ると、匂いが少し後ろへ退いた。


 僕はぴたりと近づいた。


 扉が開いた。


 白くて巨大な壁が、僕を見下ろしていた。


 エレベーターの扉が開いて閉じる、そのわずかなあいだに、僕は気を失った。



 しばらくして、扉がドンと閉まる音にはっと我に返り、よろめきながら立ち上がった。


 ぼんやりと立ち尽くし、ここへ来た理由を思い出そうとした。


 どうしても思い出せず、来た道を引き返した。


 走りたかったけれど、膝が何度も何かとぶつかり続けた。足が床をずるずると引きずった。拳で壁を叩きながら進んだ。


 すると突然、冷たい金属が手に触れ、僕は崖から落ちる人のようにそれを掴んだ。


 前に出していた足が大きくよろめいた。


 悲鳴を上げながら手をぱっと持ち上げた。


 目の前で、階段を上がる扉がぱっと開いた。

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※もし韓国語を勉強している方や、韓国語に興味のある方がいらっしゃいましたら、お気軽にメッセージをください。韓国語の原文をお送りします。

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