ライラック 4
私は韓国人の小説家です。
2年前に出版した自分の小説を日本語に翻訳し、こちらで連載することにしました。
不自然なところがあったりするかもしれませんが、楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。
ありがとうございます。
人は、感覚をひとつ失うと、ほかの感覚が発達するという。
たとえば、視覚障害者は音に敏感に反応する。リビングに掛かった時計のカチカチという音だけでも、トイレがどこにあり、玄関がどこにあるのかわかる。歩くにつれて音が大きくなれば、リビングに近づいているということでもある。外へ出れば、白い杖で地面を叩き、障害物や地形の構造を把握する。くぼんだ道や、雪が汚く溶けた土の山から返ってくる音を聞き逃さない。そんな仕草を珍しそうにさっと行き交う視線は、視覚障害者が生きていく中で最もよく耳にする音だ。
母が色で空っぽの感覚を満たすように、視覚障害者は音で空っぽの感覚を満たす。
嗅覚を失った僕も、例外ではなかった。
では、僕の空っぽの嗅覚を満たした存在は何だったのか?
色?
音?
唇の動き?
違った。
皮肉なことに、それは「特別な嗅覚」だった。
白い匂い。
死を目前にした人からは、独特な匂いがした。
気づかないふりをしようとしてもできないくらいの。どれほど顔を背けようが、鼻の奥を正確に貫き、そのまま深く入り込んでくる匂い。
最初は、その匂いが何を意味するのか、正確にはわからなかった。
母の死を知る、その時までも。
人間の鼻は、数億種類もの匂いを嗅ぎ分けることができる。
ある研究によると、嗅覚を失った人は時間が経つにつれて孤独を感じ、不安を覚え、次第にうつ状態に陥るという。
「人生が丸ごと崩れ落ちる経験より、少しずつ崩れていく経験のほうが、死に近いものなんです。」
手首がぼやけた女が言った。
女はカメラをまっすぐ見ていなかった。視線は少し下を向いていた。まるで僕の傷ひとつない手首を見下ろしているような気がした。あの女が今の僕を見たら、何と言うだろう?
『あなたはひとつだけど匂いを嗅げるじゃない。たとえそれが、死だとしても』
この匂いは幸運なのだろうか、不幸なのだろうか?
それとも、ただの神の悪戯なのだろうか?
僕は隣の家のおばあさんから初めてその匂いを嗅いだときから、それを「白い匂い」と呼んでいた。
心の中でもそう呼んだし、実際に口に出したこともあった。
なぜ白なのかは、僕自身もよくわからない。ふと浮かんだ色だった。濃くも薄くもなく、硬くも柔らかくもない、ただの白だった。
こんなことは一度もなかった。世界を色づけるには、色そのものだけでは足りないからだ。
母が亡くなり、祖母までこの世を去ってからはただ「匂い」と呼ぶようになった。
どうせ僕が嗅げる匂いはひとつしかないのだから、わざわざ色をつける必要はないと思ったからだった。
彼女に出会うまでは。
その日はいつもと少し違っていた。
目を開けると天井が鼻先まで迫っていた。
僕はぎょっとして一瞬で起き上がった。
驚いた胸が落ち着くと、ぼやけていた視野が少しずつ鮮明になった。
大きな声を出したのが恥ずかしくなるほど、部屋の中は静まり返っていた。
久しぶりに迎えた朝だった。いつも明け方に眠りにつき、正午をとうに過ぎてから目を覚ましていた。日差しが空でほのかに煌めき、窓の隙間から光の柱が細い脚を差し入れていた。
腰と首がずきずきするところを見ると、ベッドに横向きに寝転がったまま、一晩中ぐっすり眠っていたに違いない。
壁を天井と勘違いしたのだろうか?
そう考えていると、携帯電話が振動した。
ジェヒョクだった。
『じゃあ、6時に会おう。それと、お前が入荷を依頼していた本、また入ったぞ。もうお前が借りても大丈夫だと思う』
ありふれたメッセージを何度も読み返してしまう不思議な朝だった。
リビングへ下りて牛乳を温めた。
香ばしい匂いが、ふわっと立ち上った。
匂いがあっという間に家中へ広がるのは、メゾネット構造の長所でもあり、短所でもある。1階と2階を行ったり来たりしながら漂い、実に久しぶりに、朝の静寂を一枚剥ぎ取っていく。
もちろん、そんな想像をしたというだけの話だ。
「ふっくら膨らむ……」
そう呟きかけて、僕は慌てて首を横に振った。
「急にどうしたんだろう?もう、色なんて浮かばなくなっていたのに……」
あれからもう20年が経つ。
母が亡くなってから流れた歳月でもあった。
淹れたばかりのコーヒーに急いで牛乳を注ぎ、かき混ぜた。
暗褐色のコーヒーに熱い牛乳が流れ込み、薄茶色へと変わっていくあいだ、頭の中に浮かんでくる何十もの色を無理やり隅へ押し込みながら、僕は部屋へ上がった。
窓を全開にした。
初冬の風が心地よく顔を撫でた。
白い糸のような雲と、遥か彼方に掛懸かった太陽の方を見た。その間で、ひとつの赤い点が一瞬きらりと光って消えた。
僕の部屋からは、街のあちこちを見下ろすことができる。
家の門を起点に左へずっと続く坂道。その先にそびえる十数本あまりの木々。街灯をつなぐ電線。そして、色とりどりの屋根。
幼い頃は、屋根ひとつひとつに色をつけて、母に聞かせていた。
秋の紅葉のように似通った色を、どうすればうまく伝えられるのかわからず、時折、明け方にも窓を開け、考え込んだものだった。
あの頃、窓の外の景色は僕にとって画用紙だった。月明かりに白く色褪せた屋根に色を塗ると、翌日、本当にその色に変わっていたことも一度や二度ではなかった。
けれど、それも長くは続かなかった。
いつしか画用紙の端から、灰色のビルが立ち上がり始めた。
月明かりにも染まることもなく、塗り重ねることもできない殺風景な石の塊たち。
互いの頭を踏みつけながら暮らす人々が少しずつ増えていくと、いつの間にか、視覚障害者が聞く音が横から縦へと変わる世界がやってきた。
ふと、誰かが楽しそうに話している声が聞こえてきた。
中年の男性と女子学生が坂道を下りてきていた。
二人は前を見ていなかった。
制服がスーツと腕を組んでいた。主に制服が口を開けたり閉じたりし、スーツはただ笑っているだけだった。坂の終わりでは、父と娘の笑い声が窓辺まで届いた。やがて二人は小道へ入っていった。
今日だけは、二人ともその幸せを存分に感じられるだろう。
匂いがしなかったから。
空になったカップを置き、伸びをした。
胸いっぱいに息を吸い込んだ。
まさか!この歪んだ世界から匂いが少しも漂ってこなかった。
ついに嗅覚を完全に失ったのかもしれないと思った。
早く確かめてみたかった。そして、あの女の眼前に言葉を叩きつけてやりたかった。
「死に近い気分だって? あなたの人生こそ、僕があれほど望んでいた人生だ。死の存在しない人生」
窓を閉め、クローゼットを開けた。
ドアノブを回し、家を出ようとしたその瞬間だった。
理由はわからないけれど、ほんの一瞬、後ろを振り返った。
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