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匂いの色  作者: ゆず
第1章 ライラック
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23/24

ライラック 22

私は韓国人の小説家です。

2年前に出版した自分の小説を日本語に翻訳し、こちらで連載することにしました。

不自然なところがあったりするかもしれませんが、楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。

ありがとうございます。

 約8年ぶりのことだった。


 空が一部をなす廊下を歩くと、白い匂いが四方から漂ってきた。


 けれど、身を縮めることも、辺りを見回すこともしなかった。


 僕には関係のない死だったからだ。


 たとえ途中で、その匂いが扉を開けて出てきたとしても、何事もなかったように脇を通り過ぎるだろう。


 むしろ、匂いの一筋を辿って、扉を叩くことさえできた。


 もちろん、実際にはそうしなかった。そんなことをしても何も変わらないからだ。


 白い匂いが僕を迎えたとしても、相変わらず僕には何もかけるべき言葉がなかった。


 それは変わらなかった。


「どうしてそんな目で見るんですか? 私がもうすぐ死ぬからですか?」


 時折、そんな反応を期待することがあった。


 白い匂いを漂わせる人をこっそり観察していて、ふと目が合ったときのことだ。


 まだ一度も言われたことはなかったが、実際にその問いを耳にしたら、僕はどう答えればいいのだろうか。


 ジェヒョクの家の前には、今も二人の少年が立っていた。


 一人は嬉しそうに鍵を回し、もう一人は落ち着きなくきょろきょろと辺りを見回していた。


 僕が後ろに立つと、辺りを見回していた少年が振り返った。


 もちろん、僕ではなく、空を見上げたのだ。


 少年は声もなく懇願した。


 無駄だとわかっていても、そうせずにはいられなかった。


 あの日と同じように、薄月が雲の向こうに隠れていた。かけるべき言葉がないかのように。


 扉を叩く前に、僕はもう一度白い匂いを確認した。


 こちらへ歩いてくる途中、この階にある最後の死を通り過ぎていたが、それでももう一度確かめた。


 呼吸を整え、拳を握った。


 扉を叩くと、向こう側から足音が急いで近づいてきた。


 やがて扉が開いた。


 その瞬間、僕は驚かずにはいられなかった。


 おそらく、少年とまったく同じ表情をしていただろう。


「ソファ、よく来たわね」


 少年は足元を見たが、僕はその顔をまっすぐ見つめた。

 少年は腰をかがめて挨拶したが、僕は背筋を伸ばしたまま立っていた。


 ついにその違いに気づいてから、僕は中へ入った。


 理由をちらりと見た。


 ジェヒョクのお母さんの目は、とても美しかった。



 テーブルには色とりどりの料理が並んでいた。


 主に健康を考えた料理で、ほとんどが柔らかい食感だった。


 お母さんは僕に、せめて一口ずつでも食べてほしいと思っていた。いつも僕に持たせるおかずを考えていて、今回を良い機会だと思ったのだろう。


 けれど、食事はあっという間に終わった。


 短い会話が続いた。


 最後に沈黙を破ったのは、僕だった。


「好きな人ができたんです。でも、その人はひどく病んでいるんです」


 お母さんは僕をじっと見つめた。


 お母さんが言葉を選んでいるあいだ、僕はその顔をじっくりと眺めた。


 10年前と同じように首には皺が多く、顎にはほくろが3つあったが、目元が明るく、まつ毛が濃いせいか、実際の年齢よりずっと若く見えた。


 予想とは裏腹に、そこには過酷な人生と不幸な過去の中でもがき苦しむ女性はいなかった。


 そこにいたのは、過去の痛みの中から慰めを選び取れるほど、強い女性だった。


 そんな人に特有の息が漏れていた。


 いつか自分と似たような痛みを経験した人と向き合うときのために備えておいた一息だった。


 そのような行動を義務とし、さらには、当然果たすべき責任だと考える人がいる。


 お母さんはいろいろな話を聞かせてくれた。


 予期せぬ事故と痛み、行き場を失った恨み、後悔が短く連なり、痛ましい結末で幕を閉じた。


「ソファのおかげなのよ」


 その言葉は、今も僕には痛かった。


「主人があんなことになったときは、本当にいろんなものを恨んだわ。


 最初は神様を、それからひき逃げした犯人を、最後には主人を……。


 私はお葬式をしながら心に誓ったの。


 私はあなたとは違うって。ジェヒョクに、ずっとずっと愛情を注いでやるから見ていなさい、ってね。


 今考えてみれば、馬鹿な話だわね。


 私はあなたみたいにあっけなく死ぬはずがないって、あなたの分までジェヒョクを愛して、いつまでも元気に幸せに暮らしていくのだって信じていたのかしら。


 もしそうなら、それは思い違いだった。とんでもない思い違い。


 癌と診断されて、ようやく気づいたの。


 死はそれほど遠いところにあるものじゃないんだって。あの人のせいじゃなかったんだって。


 もし私もそうなって、ジェヒョクに恨まれていたら、本当に悔しくて悲しかっただろうなって。


 退院した日に、彼に会いに行って、長いこと泣いたわ。ごめんなさい、知らなかったの、って……。


 もともと無口な人だったのに、死んでしまったらますます何も言わなくなったのよ。


 きっと、そんな大したことでもないことで無駄な気を使うなって、ぶっきらぼうに答えたでしょうね。


 ほんの短いあいだだったとしても、慰めになるくらいには抱きしめてくれたはずよ。


 そういう人なの、ジェヒョクのお父さんは。


 お墓の前に立ったあの日は、本当に、どうしようもないほどあの人が恋しかった。


 でも、それでも、言葉にできないくらい嬉しかったの。


 私たちは、ようやくお互いを恨まないようになったんだから」



 お母さんはしばらく、その場所を見ているようだった。


 そして、僕の手に自分の手を重ねた。白くないその手には、温もりが満ちていた。



「遅くなったけれど、ソファにありがとうって言いたい。


 この言葉さえ、ソファにとっては負担になるでしょうね。


 でも、ただそれだけなの。


 それと、これだけは直接伝えたかったの。


 ソファは悪くないのよ。そう、誰のせいでもないの。


 ただ、水が流れるように起こったことなのよ。


 私があなたにおかずを送ったり、家に招いたりするのは単に感謝しているからだけじゃないの。


 息子のいちばんの親友が若いうちに大切な人を亡くしたからよ。


 私もそんな痛みを経験したせいか、くじけずに生きていくソファのことが、本当に殊勝だと思えてね。


 息子の友達が一人暮らしをしていたら少しでも多く世話をしてあげたいと思うのは、お母さんならごく当たり前のことなのよ。


 だから、もう自分を責めたり、恨んだりしないでほしいの。


 それはとてもつらいことじゃない?」



 僕は手元から視線を上げた。


 お母さんは、僕がそうするのを待っていた。



「ソファの好きなその子も、そうなのかもしれない。


 暇さえあれば自分の体を両腕できつく抱きしめ、一生終わることのない自責と恨みを口にしているのかもしれない。


 暗くて寂しい場所で。


 だから、早くその子にも伝えてあげなさい。


 誰のせいでもないんだって。


 だから、やりたいことをやればいいんだって」


 僕はお母さんの目をじっと見つめた。


 するとお母さんは穏やかに微笑んだ。


 僕が小さく頷くと、お母さんは嬉しそうな顔で言った。


「私がわざわざ言わなくても、うちのソファはもうわかっていたのね」


 僕は顔を背け、もう一度食べたいおかずを指さした。



「お前、マジで!」


 食事の間中ずっと一言も発しなかったジェヒョクは、僕を自分の部屋へ引っ張っていった。


 これからタンミを訪ねると言うと、ジェヒョクはかっとなった。


「お前、あの女が投稿した書評、読んでないのか? あれがどういう意味かわからないの?」


 ジェヒョクはキッチンのほうを振り返り、声を潜めた。


「お前に言ってるんだよ。自分はもうすぐ死ぬから、誰かと付き合う資格なんてないって。もうわかってるだろ!」


 僕が何も答えずに扉へ向かうと、ジェヒョクが言った。


「そうだな、うちの母さんみたいに生きられればいいけどな」


 僕は振り返った。


 ジェヒョクはとても不安そうだった。


「俺がなんでここまで言うかわかるか? 

 お前、もうおかしいんだよ。まるで別人だ。

 俺たち、知り合って10年以上だぞ。あの女とは? せいぜい半月? 実際に会ってた時間なんて、たった2、3時間じゃないのか?」


 時間に関係はなかった。


 最初からだった。


 彼女と出会ったその瞬間、薔薇の香りを嗅いだその瞬間から。


「人間はそう簡単には変わらない」


 ジェヒョクは、冷静に説得しようと決め直した。


「うちの母さんよりも、他の誰よりも、ずっとひどい匂いがするんだろ。お前の母さんがそうだったみたいに。

 どうなるかなんて誰にもわからない。

 怖くないのか? それとも、もう忘れたのか?

 それがお前の味わう悲しみの大きさなのかもしれないんだぞ」


「そうかもしれないな」


「だったら行くな!」


 ジェヒョクは母さんに聞こえることも構わず叫んだ。


「前にも言っただろ? お前は死に慣れすぎてるって。

 あの死は、他の死とは違う。もっと危険なんだよ」


「死に、もっと危険なものなんてない」


 ジェヒョクは頭をがしがし掻くと、話の通じない馬鹿に言い聞かせるようにゆっくりと言った。


「前にカフェで『リスボンへの夜行列車』について話したの、覚えてるか?

 小説に出てくる教授を馬鹿にしながら、お前が生と死について言っただろ。

 生が列車なら、死は終着駅だって。

 みんな同じ場所へ向かっていってるんだって」


「その先には、全部、虚しいだけの死だと言っていたよな」


「そう。でも、他の意味では、人によって終わりに辿り着く時期が違うってことにもお前は同意した。

 つまり、俺たちの生には、途中で降りる人間もいるってことだ。

 お前の母さんも、俺の父親も。そして、あの女も。

 降りた場所が彼らの終着駅であり、彼らにとっての死なんだ」


「一緒に降りちゃ駄目なのか? ほんの少しだけでも一緒に降りて、また乗ればいいじゃないか」


「言うのは簡単だろ!」


 不意に、キッチンから聞こえていた洗い物の音がぴたりと止まった。


 僕たちは顔を見合わせた。


 再び皿のぶつかる音がすると、ジェヒョクは声を潜めて言った。


「愛する人が死ぬことと、もうすぐ死ぬ人を愛することとじゃ、話が違うんだよ」


「人は結局死ぬ。お前も、俺も」


「俺たちは死なない。少なくとも今日じゃない! 

 それを一番よく知ってるのは、お前だろ」


「違う」


 僕はきっぱりと言うことができた。


 それは、つい最近まで答えの出なかった疑問だったからだ。


 白い死とともに現れたその疑問は、長いあいだ僕を苦しめてきた。


「そう、お前は死なない。匂いがしないからわかる。でも、俺は違う」


 僕は部屋の中を見回した。


 匂いのない世界をもう一度確かめたかったからか、あるいは、今この瞬間も周囲を漂う薔薇の香りが映し出されるのではないかと気になったからか。


 けれど、鏡はなかった。


「なぜかわからないけど、そんな確信があるんだ。俺は自分の死の匂いを嗅ぎ取れない。今すぐ死ぬとしても」


 僕はドアノブを触った。


「この1週間、じっくり考えたんだ。

 死の前では誰もが平等だっていうだろ。

 だから、人それぞれが漂わせる白い匂いの強さも、みんな同じはずなんだ。

 なのに、なぜ母さんとあの女だけが例外なんだろう?」


 ジェヒョクは知りたがっていなかったが、僕は続けた。


「それは、俺を呼んでるってことなんだ。だから行かなきゃならない」


 ジェヒョクは僕をじっと見つめた。


 さっきの少年のように、声もなく懇願していた。


 僕だって、こうせずにいられただろうか?


 もしジェヒョクが白い匂いを漂わせる人を愛していたなら、僕も同じように反応したはずだ。


 長い歳月のあいだに僕のそばを通り過ぎていった数え切れないほどの死を持ち出して、必死に止めただろう。


 タンミと出会う前、薔薇の香りのなかった世界にいた僕なら。


「そんなに心配するなよ。俺たちだって死ぬ。もうすぐ死ぬ人間なんだ。白い匂いはしないけど、その事実は変わらないだろ」


 僕は正直に言った。


「誰にも嗅ぎ取れないだろうけど、俺は自分からも白い匂いがしてるって信じることにしたんだ。

 今逃げたって同じだ。

 もしこの先、また俺が愛する人が現れたとしても、その人が白い匂いを漂わせないはずがない」


 運命とは、たいていそういうものだから。


 ところが、そんな悲惨な運命にもかかわらず、何度も笑みがこぼれそうになって堪えきれなかった。


 こうして実際に口に出してみると、この1週間の待ち時間でも完全には解けなかった考えが整理され、すらすらと解きほぐされていった。


 まるで、ここへ来た理由がそれだったかのように。


「一つの死が、もう一つの死を愛するっていうことだよ。もう誰もがそうしているように」


 僕自身も、今何を言っているのか理解できなかった。


「こんなことを言った哲学者もいるんじゃないか?」


 ジェヒョクはぎゅっと目を閉じ、首を横に振った。


「翻訳家じゃなくて、哲学者にでもなれば? 恋に落ちた哲学者なら、歴史に名を残せるぞ。

 なぜかって? 

 今までそんな奴はいなかったからだ、この馬鹿野郎」


 やがて扉を開けたとき、さっきから言おうとしていた言葉がふと浮かんだ。


「お母さんからは、白い匂いがしない。もう不安にならなくていいよ」


 その言葉に、ジェヒョクははっとした。


 10年もの間、ずっと気になっていたんだな。


 少し申し訳ない気持ちになった。


 それと同時に、これまで一度もその気持ちを表に出さなかったジェヒョクがありがたかった。


 こんな友人がそばにいるのは幸運だった。


 もちろん、別の意味でも。


「それから、書評の当選者のことなんだけど」


 ジェヒョクはすぐに僕の意図を察し、いつもの調子に戻った。


「ふざけんな。あれは書評じゃねえよ」


 申し訳なさは一瞬で消えた。


「何言ってんのかさっぱりわかんねえことを、だらだら書き連ねただけの文章だろ」


「お前は融通が利かなすぎるんだよ」


 僕は飛びかかってこようとしたあいつを床に倒し、扉を開けた。


「じゃあ、当選者を2人にしろよ。1人ずつ選んで、本も買ってあげるってことで」


 扉が閉まる隙間から、容赦のない悪態が飛んできた。


 僕は急いでキッチンへ駆け込んだ。


「お母さん、おかずは明日取りに来ます!」


 そう言ってリビングを通り抜け、家を飛び出すと、悪臭の漂う暗い廊下へ駆け込んだ。

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※もし韓国語を勉強している方や、韓国語に興味のある方がいらっしゃいましたら、お気軽にメッセージをください。韓国語の原文をお送りします。

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