ライラック 23
私は韓国人の小説家です。
2年前に出版した自分の小説を日本語に翻訳し、こちらで連載することにしました。
不自然なところがあったりするかもしれませんが、楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。
ありがとうございます。
その匂いが、再び見えた。
家は白い匂いに占領されていた。
沸き立つ水蒸気のように膨れ上がった煙が、空へと立ち昇り、雲に届いていた。
雲の一部が、滝のように家の上へ降り注いでいるようにも見えた。遠くから見ると、宙に大きな四角い穴が開いているようだった。
そのピースは、間違いなく女のものだった。
白が一番濃いところには、赤い光が円を描いていた。
濃い霧に覆われた太陽のように。
どんなに時間が経っても、太陽は微動だにしなかった。
深く眠り込んでいた。徐々に消えかけていた。
太陽は、その姿と同じように身を縮めていた。
辺りをうろつくと、淡い黄色の明かりがちらつく場所が、おそらく門の扉だったのだろう。
女を取り囲む死は僕が拳で叩いてもびくともしなかった。
僕は作戦を変え、周囲をぐるぐると回り始めた。
壁らしき場所に腕を差し込むと、肘まで煙の中に沈んだ。
そのまま3周してから、上を見上げた。
どこまでが外壁なのか、高さが全く見当もつかなかった。
塀を掴もうと高く跳び上がっても、指先には何も触れなかった。
さらに2周した。
跳び上がるたびに、匂いに抱かれた。それでも、何も掴めなかった。
一度は車の上に登り、外壁の向こうをじっと見つめた。
女は今度こそ、カーテンを閉めることを忘れなかった。
一筋の光も、僕が投げかける名前も、小石の一片さえも中には入れなかった。
僕とは違い、女は完全な漆黒の暗闇を見ているはずだった。
目を開けていても、閉じていても、あるいはそのどちらなのかさえ忘れてもいいほど、濃い暗闇なのだろう。
僕は白い暗闇を見つめた。
叫び、叩き、歩き回った。
やがて疲れ果て、その死に身を委ねた。
白い匂いは少しずつ僕を飲み込んでいった。
自分の体からも白い匂いが漂っているような錯覚さえ覚えた。
自分の死を吸い込んだ。
そのまま、白い匂いが体に染みつくことを願った。
その悪臭が僕の体のどこかを壊してくれることを願った。
そうすれば、彼女が扉を開けて出てくるかもしれなかった。
死が死を愛する、と言ったではないか。
僕の死を喜ぶ女。
僕を抱きしめ、自分と同じ匂いを吸い込む。
死を目前にした女は、それによって愛のもう一つの条件を満たす。
死が行き交う愛。
僕は、それが本当に起こってほしかった。
それほどまでに、タンミに会いたかった。
カフェの窓際に座り、外を眺めた。
夜の空気は群青を帯びていた。空には欠片のような小さな星々が散りばめられていた。
閉店間際のカフェにいた客は、僕一人だけだった。
背後ではコーヒー豆を挽く音がけたたましく響き、その合間に店員の愚痴が混じっていた。
通りには早くもクリスマスの雰囲気が濃く漂っていた。
そのせいか、遅い時間にもかかわらず、通りは人々で賑わっていた。
クリスマスらしいさまざまな飾りが木々にたくさん吊るされていた。
通りすがりの子供の指先は赤い靴下とふわふわの髭を指していた。
子供の目はキラキラと輝き、明かりの消えた店の中では小さなツリーがきらめいていた。
僕は視覚から嗅覚へと意識を移してみた。
何人かは白い匂いを漂わせていた。
それでも、愛は行き交っていた。
『けれど、ここにはとても重要な前提条件がある』
女はためらうことなく指を動かしていた。
『それは、自分だけの幸せ』
僕は男から、女から、子供から、老人から、白い匂いを嗅ぎ取ってきた。
その長い歳月の間、僕は一歩引いて、彼らをちらり見てきた。
横目で見るほうが、正面から見つめるよりも客観的で正確なことがある。
特に、孤独が他人を見つめるときには。
だからこそ、僕にはよくわかる。
彼らはいつも、愛を与え合っていた。
誰もがそうやって生きていく。
そう、僕たちも。
もう待つことは十分だった。
僕は電話をかけた。
今度は満月ではなく、四角い光が彼女の前に落ちるだろう。
女は以前のようにびくっとするだろうか。
それとも、三日月のような微笑みを浮かべるだろうか。
呼び出し音が7回続いた。
そのあいだ、僕には明るい声を想像するほどの余裕さえあった。
白い匂いであれ、薔薇の香りであれ、すべて僕の精神病が生み出した幻想にすぎず、僕と別れた後、女が暗い部屋の隅でうずくまり、悲しみに沈んでいるというのも僕の錯覚で、僕のことなどすぐに忘れ、胸躍る海外旅行の準備で忙しい最中なのだが、見知らぬ番号からの着信に少し迷った末、礼儀正しく電話に出る――そんな女の声を想像していた、まさにそのときだった。
8回目の呼び出し音がぷつりと切れると、静寂が流れ、女の生は再び深い暗闇に包まれた。
僕は「通話中」と表示された画面を確かめ、もう一度耳に当てた。
「もしもし」
その言葉と女の名前を交互に口にした。
呻き声のような震えが聞こえてきた。
日食によって固く閉ざされた月。
「はい……」
微笑みはなかった。
「僕です」
そう言った。
女は苦しそうに言葉を続けた。
「どうして電話したんですか?」
「会いたいからです」
欠片のような笑い声。
「こんなに突然?」
「そうですね。あなたの足がもう少し遅かったら、こんなことはしなかったんですけど」
「今度警備員のおじさんに言いつけますね。ブックカフェに変な人がいるって」
「仕方ないんですよ。それだけの理由がありますから」
女はためらった。
「何ですか?」
僕は少し間を置いてから言った。
「当選したんです」
僕は理由を説明した。
「おめでとうございます。書評イベント、覚えてますか? タンミさんの書評が選ばれたんです。だから……」
「いったい、何なんですか?」
もう我慢できないというように、女が言葉を遮った。
「そんなはずないでしょう」
「なぜですか?」
「だって……」
女は話を逸らした。
「ソファさんが勝手に決めたんじゃないでしょうね?」
「そうかもしれませんね」
「本当に変な人」
「まだ始まったばかりですよ」
僕は相槌を打ち、賞品を覚えているかと尋ねた。
「はい」
どれくらいぶりだろう。
「覚えてます」
視線が少しずつ上へ移っていくような声だった。
女は目を細め、揺らめく天井を見つめているようだった。
床から遠ざかったその声は、ささやきのように弱く、か細かった。
僕も夜空を見上げた。
月は明るく輝き、群青を帯びた空と白い雲は遠く離れていた。
雲のほうが少し下の方にあった。
「欲しい本はありません。ソファさんが適当に何か送ってください」
「いいですよ。でも、ルールがあるんです」
僕はジェヒョクの部屋にいたときから用意してきた言葉を口にした。
嘘はこう締めくくられた。
「賞品は、当選者に直接手渡さなければならないんです」
女は黙って聞いていた。
時折、ガサガサという物音がした。
やがて声がはっきりした。
「それなら、もう結構です」
次の言葉。
「今、タンミさんの家の近くのカフェにいます。あなたを待っています」
僕が落ち着いた声でカフェの名前を告げると、女は驚いて聞き返した。
「私、どこにも自宅の住所なんて書いてないんですけど」
「まだ始まったばかりだって言ったでしょう?」
そう言った。
「待ってます」
女は何も言わなかった。
いつの間にか暗闇に目が慣れ、周囲を見回している女の姿が目に浮かんだ。
鏡は伏せてあるか、裏返してあるはずだった。
やがて視線は、自分の体のそこかしこへと向かう。
その音はくしゃくしゃになった紙を広げるように騒がしかったが、僕はその伸びをするような騒音に黙って耳を傾けた。
やがて女は、「少し待っていてください」と言い残して電話を切った。
コーヒーが出てくると、僕は隅の席へ移った。
薔薇の香りが動き始めると、胸が高鳴り始めた。
さらに30分が過ぎると、恐ろしいほどの速さで白い匂いがカフェを覆い始めた。
一方、薔薇の香りは数歩後ろにあり、次第に濃くなっていった。
たった1週間しか経っていないのに、薔薇の香りは以前とは比べものにならないほど濃くなっていた。
2つの匂いは競い合うかのように、互いを押しのけ、染め合い、抱き合った。
ノートを取り合って喧嘩する少年たちのように、絡み合っていた。
まもなく、ベルが鳴った。
女が最後の客として入ってきた。
白い匂いのほうがほんの少し濃いという考えを振り払い、扉のほうを見た。
女は服に埋もれていた。
ぼさぼさの髪は、目に見えて伸びていた。マフラーは顔の半分を覆い、肩からだらりと垂れた袖は両手をすっぽり隠していた。
母親の服をこっそり着た子供のようだった。
だから、僕が暖かいカップを差し出しながら最初に言った言葉は、こうだった。
「あの子を見ましたか」
その前に、女は小走りでやって来て、目の前に立つと、向かいの席にドスンと座った。
そして僕の問いに首を横に振った。
「いいえ。もう現れません」
女はマフラーを引き下げ、コーヒーをすすった。
「あのときは、かなり勇気を出したと思っていたんですが、私は相変わらず弱いままですね」
目の下には、暗い部屋の一部を持ってきたかのような影があった。
いくら化粧で色を乗せても、その部分を隠すことはできなかった。
目と唇はわずかに開いていた。
その隙間から、不安げに僕を見つめていた。
「それにしても、本当にここにいたんですね」
僕は空っぽの手元を見下ろした。
「本はないんです。すみません」
「いいんです。本のために来たわけじゃないんですから」
女は謝った。
「ここに来たのは、この前の私の行動について謝りたかったからです。あんなふうに勝手なことをするべきじゃなかったのに……ごめんなさい」
ほんの数言語を口にするだけでもつらいのか、唇が震えていた。
「ただ、お酒の勢いであんなことをしたんだと思ってください」
僕たちはあのとき、酒など飲んでいなかった。
僕は顔を上げた。
「じゃあ、どうして泣いたんですか?」
「それは……」
「タンミさんの書いた書評と関係があるんですか?」
実は、女が目の前に座るまでは、落ち着いて話を進めるつもりだった。
けれど、その空虚な目を見た途端、僕の考えは一瞬でひっくり返った。
待ちくたびれて、忍耐の限界に達していたのかもしれない。
あるいは、彼女が過去の僕とあまりにも似ていたからかもしれない。
「前に話しましたよね? 花が咲き乱れる空間に閉じ込められてから、嗅覚を失ったって。考えてみれば、あのときからなんです。僕があなたと同じような臆病者になったのは」
女は顔をしかめた。
「どういう意味ですか?」
勇気を出していた臆病者。
それは間違いなく、女が聞きたくなかった言葉だった。
「タンミさんと僕が似ているってことです」
僕は構わず続けた。
「僕の世界は、画用紙のように真っ白でした。
その中で、僕の世界に色を塗ってくれる誰かを、そう、画家のような存在を、ひたすら待ち続けていたんです。
もちろん、そのときは気づいていませんでした。ずっと誰かを待っていたということを。
その人が目の前に現れて、ようやく気づいたんです。
ところが、当の本人は気づいていなかったんです。
他人の世界を塗り替えるように変えることはできるのに、肝心の自分の世界は怖くて隠れてしまう臆病者なんです」
女が立ち上がると、椅子とカップが同時に倒れた。
「あなたは私のこと、何も知らないじゃないですか」
「この前、僕に聞きましたよね? タンミさんからどんな匂いがするのかって」
『これは間違いなく悲劇だ』
けれど、止められなかった。
「そうです。僕は嗅覚を失いました。でも、他の匂いを嗅ぎ取ることができるんです。それは……」
女はゆっくりと後ずさった。
こぼれたコーヒーが床にぽたぽたと落ち、椅子は足に蹴られて隅へ転がっていった。
女はよろめきながら後ずさりし、僕の次の言葉を待っていた。
半分は期待し、半分は恐れながら、僕の口から流れ出る死を受け止める覚悟をしていた。
やがて女は立ち止まった。
僕は彼女をまっすぐ睨みつけた。
残酷なほどに。
「また逃げるつもり?」
女は本当にそうした。
彼女が扉を押し開けて飛び出すと、鋭い音が天井に響き渡った。
その瞬間、女は白い匂いであり、僕は薔薇の香りだった。
僕はすぐにあとを追い、ベルの音はやがてカフェの中で止んだ。
通りには誰もいなかった。
息遣いと足音だけがあった。
僕の足元に、長い影が差した。
女の頭だった。
女は地面の上でよろめいていた。
痩せ細った脚はとても遅く、まるでその場で足踏みしているようだった。
僕は一気に追いつき、女の腕を掴んで引き寄せた。
低い声で囁いた。
「君は臆病者だ」
その一方で、心の中では、どちらの秘密を打ち明けるか選んでいた。
白い匂い?
薔薇の香り?
「写真に扉を作る理由が、そこへ入ってくる人のためだって? 自分の物語に入ってくる人たちのため?違う。それは嘘だ。もっと素直になって」
女が腕を振りほどくと、僕はもう一度掴んだ。
そして、一言一言をはっきりとぶつけた。
「君が入りたかったんだろ。その扉の向こう側に。
人と人との間で愛が行き交う、あの24時間の中に入りたかったんだろ。
あのときも、今も、君はずっと、自分だけの愛も、誰かと交わされる愛もできなかったんだ。
ただ哀れな女みたいに、みじめったらしくカメラの前にしゃがみ込んで、羨ましさに身をよじらせていただけなんだ。
なぜ、その中へ飛び込もうと思わなかったのか?
扉を作るなんて言い訳をしながら、どうしてずっと見ているだけだったのか?
俺には、その理由がよくわかる」
女は泣いていた。
聞きたくないと、必死に身をよじった。
僕の口から流れ出たのが、死ではなく、生だったからだ。
だからこそ、僕はさらに踏み込んだ。
二つの秘密のうち、一つを選んだ。
「怖かったんだよ。その中に、誰もいないんじゃないかと」
僕は彼女を胸に引き寄せたり、指で涙を拭ったりしないよう、必死に堪えた。
一息でそれをやり遂げた。
そして、こう言った。
「でも、まだわからないの?
君はもう、その中に入っているんだよ。
俺はただ、君の後を追って入ってきただけなんだ。
君が作った、あの白い扉から」
タンミはガタガタと震えた。
涙が勝手に流れ落ちるままにしていた。
今すぐでも拭ってやりたかったが、そうはしなかった。
代わりに、無理にでも笑ってみせた。
すると、震えは少しずつ収まっていった。
「つまり、俺たちはもう、お互いを愛しているってことなんだ。
君と俺は、もう愛を与え合っているんだよ」
タンミは声もなく尋ねた。
『私に、そんな資格があるのかな?』
資格。
僕はその言葉が本当に嫌いだった。
けれど、その言葉を、僕の愛する人が切実に求めていた。
「あるよ」
僕は言った。
「君にはその資格がある。前に言ったよね? 君からは匂いがするって」
薔薇の香り。
どうして死を告白できるだろうか。
「薔薇?」
「うん、薔薇。とても、とても真っ赤な薔薇」
僕は周囲を見回した。
白い匂いはもう目に見えなかった。
その代わりに、薔薇の香りが周囲をぐるりと取り囲んでいた。
「目にも見えるんだ。本当だよ。だから君がどこにいても、俺はわかるんだ」
タンミも僕につられて周囲を見回した。
「私も見たい」
「見られるよ」
「そんな日が来るのかな?」
「きっと来る」
僕はタンミをぎゅっと抱きしめ、薔薇の香りを吸い込んだ。
「うん、きっと来る」
タンミも僕を抱きしめ、同じようにくんくんと鼻を鳴らした。
僕たちは声を上げて笑った。
それから僕は、薔薇の香りについてもう少し詳しく話した。
タンミは僕の胸の中で、次第にかすれていく声で答えた。
やがて目と口をぎゅっと閉じた。
今にも眠りに落ちそうだった。
何番目のピースなのかわからない、初冬のある明け方だった。
あの日からだった。
白い匂いよりも、薔薇の香りのほうが濃くなった日々は。
眠ったタンミをおんぶして、空っぽの通りを歩きながら、ふとこんなことを考えた。
いつか、この白い匂いをすべて消し去ってしまうほど、薔薇の香りが濃くなるのではないだろうか。
今日、打ち明けられなかった秘密が、死が、嘘のように消えてしまうのではないだろうか。
本当に、僕がタンミを愛すれば愛するほど薔薇の香りが濃くなるのなら、いくらでもそうしようと誓った。
そうして死が消えるのなら……。
けれど一方で、その速さがあまりにも速すぎるのではないかと、怖くもあった。
#「ライラック」チャプターが終わりました!
ここまで読んでくださった読者の皆様、ありがとうございます!
次の章は「チューリップ」です。
楽しく読んでください。
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