↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
匂いの色  作者: ゆず
第1章 ライラック
PR
19/21

ライラック 18

私は韓国人の小説家です。

2年前に出版した自分の小説を日本語に翻訳し、こちらで連載することにしました。

不自然なところがあったりするかもしれませんが、楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。

ありがとうございます。

 インド料理店は古い木のようだった。


 匂いは樹皮のように濃い茶色だった。床も、テーブルも、照明も、皿も、果ては紙ナプキンに至るまで。


 奥の壁には音のない映像が流れていた。


 インドの歴史を徐々に辿っていくうちに、いつしか女性の着る伝統衣装が映し出されていた。白黒の映像なので色は灰色に他ならなかったけれど、実際は色とりどりではないかと想像した。それと似たような模様が刻まれた芸術品が店のあちこちに飾られていた。残りの壁にはそれぞれ一つの感情だけを浮かべた仮面と手のひらほどの鏡がびっしりと貼りついていた。


 この店を勧めてくれたのはジェヒョクだったけれど、インドという国を選んだのは僕だった。


 理由は簡単だった。


 彼女のブログにはインドがなかった。


 僕の向かいには、静かな静寂が座っていた。時間が遅くなるにつれ、その空席が永遠に埋まらないのではないかという不安に襲われたけれど、僕は落ち着いて待った。



 待つこと。



 僕は母に似て、その感情には慣れていたはずなのに、最近はそのことを忘れがちだった。この頃は、暇になる度に焦りを覚えていた。


 幸い、今日は長く続かなかった。


 心臓がどくどくと鳴った。それとよく似た鼓動が地面から響いてきた。


 薔薇の香りが駆け寄ってきていた。


『これは錯覚じゃない』


 ついに店の扉がベルを鳴らした。続いて、その匂いがコツコツと僕のほうへ近づいてきた。


 そして、僕をそっと見下ろした。


 香りを含んだ声が目の前に落ちてきた。


「遅くなってごめんなさい。ちょっと寄るところがあって。ずいぶん待ちました?」


 僕はゆっくりと視線を上げた。


 薔薇の香りは、彼女と初めて出会ったあの瞬間から僕を慰めてくれた存在に違いなかった。それでも、その匂いが煩わしく感じられる瞬間だった。


 ふと気づいた。


 この1週間、僕のそばにいてくれたのは匂いではなく、間違いなくこの女だったのだ。


「いいえ」


 僕は唇の内側を噛んだ。


「僕は今来たところです」



 僕たちは向かい合って座り、黙って互いを見つめた。


 彼女の顔にほのかに浮かぶ微笑みに、僕は自分と同じ感情を感じ取った。女もすでに、僕を親しい存在だと思っていた。


 店員が近づいてくると、サラダをはじめ、アンダカレーとほうれん草のカレー、タンドリーチキンを注文した。


 僕はグラスに温かいお湯を注ぎ、彼女に渡した。


「旅行は楽しかったですか?」


「楽しかったです。韓国にもきれいなところがたくさんあるんですね」


 女は暗い色のカップで冷たい手を温めた。


「夜の海も、心ゆくまで眺めました」


「歌も歌いながら?」


 女はもう少し微笑んだ。


 耳の後ろへ流した数本の髪が、顎に触れた。


 そして、女は温かい水を少しずつ口にした。カップを両手で持ち上げて飲み、また両手でそっと置いた。


 その一連の仕草が美しかった。


 もう、言わなくてもわかるだろうか。


 薔薇の香りが濃くなった。


「そうなんです。すごく有名な歌があるんですよ。一度聞いただけで思わず口ずさんでしまう歌でした。歌は下手なんですけど、夜の海に沿って歩きながら鼻歌で歌ったんです」


 女はカップから目を上げた。ゆっくりと、慎重に。


「それから、ソファさんのことも考えていました」


 不思議だった。


 感情のこもった言葉に重さがあるとしたら、こんなにもずっしりとするものなのだろうか。


「僕もです」


 似せたかった。その重さに。


「僕も、タンミさんのことを何度も考えていました」


 その言葉に、女は一瞬、悲しげな気色配を見せた。けれど、その色はポケットに手を入れるとたちまち消え去った。


「写真もたくさん撮ったんです。見ますか?」


 僕は頷いた。


 彼女の撮った写真を直接見せてくれることに少し緊張したけれど、震えはすぐに収まった。


 椅子を引き寄せて身を乗り出した。


 目の前で、青白い指先に合わせて写真が一枚、また一枚とめくられていった。危うく、通り過ぎた写真を指で引き戻しそうになった。


 僕が期待していたピースではなかった。


 写真はどれも、ごく平凡だった。


 もちろん、他の人に見せれば高く評価されたかもしれない。構図や明暗の調整は一目見ただけでも相当な腕前だとわかった。


 けれど、僕にはどの写真も平凡で退屈に感じられた。


 ブログで見た写真とは、あまりにも異なる写真たち。


 写真はあっという間に過ぎ去った。


 最後の写真にだけ、唯一タイトルが付いていた。


『ソバの花』


 下から上へ、裸足、砂、砕ける波しぶき、黒い海、水面でキラキラと揺らめく光が、幾重にも積み重なっていた。


「どうですか? うまく撮れてます?」


 僕は思わず本音を漏らしてしまった。


「写真が、ちょっと違いますね」


「そうですか? でも、何の写真とですか?」


 僕は静かに写真から視線を上げた。


 女は僕の心を読んだ。


「私のブログを見たんですね」


「ブックカフェに載せられていた自己紹介を見ていたら、たまたま……」


 女は頷いた。


「そうですね。少しどころか、だいぶ違いますよね。そういえば、あの日以来、初めて写真を撮ったんです。考えてみれば、とても昔のことみたいに感じます。もう、あんなふうには撮らないつもりです」


 理由を尋ねようとした矢先、注文した料理が運ばれてきた。


 料理はジェヒョクの心配とは裏腹に、初デートの食事として悪くなかった。料理はストーブのように温かく、目を引くほど個性的だった。彼女にとっても馴染みのない料理だったので、僕も話を合わせやすかった。女がある味に感嘆すると、僕もまったく同じように反応をした。それが2、3回続いた後、一度は逆にしてみた。


 最後の料理が運ばれてくると、僕は先に口に運び、じっくり味わうふりをしながら、目で食べるように勧めた。


 すると女は、その味に目を丸くした。


「一つ、聞いてもいいですか?」


 僕が言った。


 彼女はほうれん草のカレーが一番好きだった。


「もちろんです」


「タンミさんは、なぜ写真の中にいないんですか? とても手間をかけて撮った写真みたいですけど」


 女は手を止め、じっくり考え込んだ。


「写真のいちばんいいところは、絶対に変わらないことだ。その中にいる人たちは変わっても」


 女はしばらく沈黙し、僕は次の言葉を待った。


「いちばん好きな写真家なんですけど、その言葉には賛成できませんでした。むしろ、見た瞬間に逆だと思ったんです。その考えに確信が持てるようになった頃、私は24時間を写真に収めて表現し始めました。変わるのは写真とそれを撮った人、つまり私だけだという意味を込めて。それさえも否定したかったけれど、どうしようもない事実でした。でも、写真の中の人たちは違います。どれほど時間が経っても変わらず、あの姿のまま、一生写真の中で生きていくんです」


 僕は何枚かの写真を思い浮かべた。


「私は、変わることが怖かったんです。いや、恐ろしかったと言ったほうが正しいかもしれません」


「じゃあ、写真の白い部分は?」


「あれは扉です」


「扉?」



 偶然だろうか、必然だろうか。



「私は自分の作品に、いつも扉を作っていたんです。雪のように白い扉。私の物語に入ってくる人のために」


 同じ匂い。同じ濃さ。


 そして、記憶。


 そのすべてが、抑えようもなく押し寄せてきた。


「亡くなった母も、生前、似たようなことを言っていました。そして、どの絵にも扉を描いていたんです」


「本当ですか? お母様は画家だったんですか?」


 僕はごくりと唾を飲み込んだ。


「もしかして、絵もお好きですか?」


 それから、僕たちはずいぶん長いあいだ話を交わした。


 遥か遠くへ、長い旅に出て、久しぶりに再会した人のように。


 けれど、二人の話には、それぞれ大事な一部分が欠けていた。互いの秘密だった。僕は話し始めたときから女がそうするだろうと確信していたし、女もきっと同じだった。


 けれど、彼女には知らないことがもう一つあった。



『僕はあなたの秘密を知っているけど、あなたは僕の秘密を知らないということ』



 食事を終えて店を出る際、女はトイレに行きたいと言った。バッグを持っていようかと聞くと、女は笑って首を振った。


「口紅を塗り直したいので」


 それで、僕は先に店を出た。



 梨泰院の明け方の通りはこの上なく静かだった。


 エキゾチックな色彩を誇っていた看板や照明は光を失っていた。最後の乗客を乗せた緑色のバスは、黙々と自分の道を走り去っていった。


 僕は灰色の真ん中に、ぽつんと立っていた。空気は物寂しく、影はいっそう濃かった。


 色を添えてくれる薔薇の香りを待ったけれど、どういうわけか、なかなか出てこなかった。


 そのとき、白が鼻先に触れた。


 本当に、そうだった。


 僕は夜空を見上げた。


 初雪が降っていた。


 風にひらひらと舞う、子供のような雪だった。弱くて、小さな。けれど、どんな子供とも同じように、その中には強い生命力が宿っていた。だからこそ、ここまで降りてこられたのだ。


「*カランヌンだ」


 女は、その子供のような雪を名前で呼んだ。


 手のひらを差し出したまま、雪でいっぱいの夜空に向かって聞き慣れない名前を呼ぶ女を、僕はじっと見つめた。


 雪は、白く、赤い匂いの懐へ落ちていった。


 女は僕の視線に気づいた。


 そして、ためらいがちに口を開いた。間違いなく、何度も呑み込み、ためらった言葉だった。


「ソファさん、もしかして、私から何か匂いがしますか?」


 僕は本当に、彼女の前に立つと犬のようにくんくんと鼻を鳴らしているのかもしれない。


 慌てて視線を逸らした。


「いいえ。そんなわけないです。僕は……」


「匂いが嗅げないから?」


 振り返った時の女の顔は、穏やかだった。


 薔薇の香りは平然と話を続けた。


「私に話してくれる、すごく変な秘密って、それだったんですか? それほど驚きませんけど」


 まったく気づかなかった。


 気づかないはずがないのに。


 そういえば、女は僕に料理の味も匂いも尋ねなかった。


 そんなはずはない。


 気遣いであれ同情であれ、数え切れないほど向けられてきたあの眼差しを、見逃すはずがないのに。


 女は僕の目の前まで近づいてきて、立ち止まった。


 女は楽しそうだった。


 そして、美しい唇で言った。


 恐ろしい言葉を。


「私が期待していた秘密は、白(・)い(・)匂(・)い(・)だったんですけど」


 一瞬、白が止まった。


 そんな錯覚がした。


 名前を呼ばれて振り返ったかのように、無数の雪片も世界の真ん中で止まった。


 僕は何も答えられなかった。


 やがて、その存在感を主張し始めた白い匂いに思わず鼻を塞ぎそうになった。


 女は通りのほうへ体を向けた。


 そこにも、ふわふわと雪が降っていた。


「こっちを歩きましょう」

*カランヌン

>「少しずつ細かく降る雪」という韓国語です。日本語の中では「粉雪」という単語に最も似ています。


#読んでいただき、ありがとうございました!

ブックマークや評価「☆☆☆☆☆」で応援していただけると嬉しいです!

よろしくお願いします!


※もし韓国語を勉強している方や、韓国語に興味のある方がいらっしゃいましたら、お気軽にメッセージをください。韓国語の原文をお送りします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。