↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
匂いの色  作者: ゆず
第1章 ライラック
PR
17/21

ライラック 16

私は韓国人の小説家です。

2年前に出版した自分の小説を日本語に翻訳し、こちらで連載することにしました。

不自然なところがあったりするかもしれませんが、楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。

ありがとうございます。

 丘の頂を見上げた。


 そこには、空があった。


 雲ひとつない空は、海のようだった。下から支えている重々しい空気が消えれば、今にも丘の下へ飛び降りてきそうな青の海だった。この1週間、僕はその丘を走ってきたけれど、最後の日になって初めて、そんなことを思った。空を装った海が丘を伝って押し寄せてきたら、僕には止められないだろうと。一瞬にして、無数の斜線が僕を見下ろすだろうと。


 僕は、波が吐き出す息の音を聞くだろう。


 どれほどもがいても遅々として進まなかった時間が、ようやく終わったからなのかもしれない。いざ心から願い、待ち望んだ日が来ると、人は静かで感傷的な気分に襲われるものだから。


 考えてみれば、深夜の梨泰院(イテウォン)の路地で女の後ろ姿を見たときも、似た感覚を覚えた。


 ほんの少しだが雪の積もった道を、ハイヒールを履いた女は大股で遠ざかっていく。その一方で、裸足も同然の僕は何度も滑り、視界の中で揺れる後ろ姿をなすすべもなく見つめていた。


 そのとき脳裏をよぎった数え切れない場面の一つは、間違いなく、この空が降り注ぐ丘だった。


 どれほど足掻いても、到底止めることのできない何か。


 だから僕は、その翌日もこの丘の前に立った。


 喪失をずるずると引きずってきて、上を睨みつけた。


 何事もなかったかのように空のふりをして、何でもないふりをして、ふわりと浮かんでいる海を確かめるために。


 僕はためらわなかった。


 どうなっても構わなかった。


 たとえ登る途中で飲み込まれても、頂に辿り着く寸前で飲み込まれても、後悔しない自信があった。


 そうやって粘り強く登り続ければ、いつか冷たい海の底に額が触れ、さらに上へともがけば、海の天井を抜け出して、あれほど望んでいた本物の空を見ることができるのではないか?


 僕は狂ったように丘を駆け上がり始めた。



 時間を巻き戻して、女と会う約束をしたその日の朝。


 僕はつま先で地面を蹴りながら、体をほぐしていた。


 空気は暖かかった。


 季節を間違えた日差しと風を満喫した。


 丘を登る前に、僕は様々な音に耳を澄ませた。


 辺りが静かになるまでには、少し時間がかかった。


 ちょこちょこと尻尾を振る子犬と仲睦まじい老夫婦、ベビーカーを押す女性たちは脇道へ入っていった。

 息を切らしながら彼らを追いかける遅刻者は、すぐに先頭の人に追いついた。


 やがて、辺りは静まり返った。


 ゆっくりと目を閉じ、開いた。


 それでも同じだった。


 僕は坂道を全力で駆け上がった。


 1週間繰り返したおかげで、少しは体力がついたような気がした。


 相変わらず太腿はずきずきと痛み、ふくらはぎは重く、息も切れたけれど、僕はその苦痛を楽しめるほどになっていた。


 一度も休まず丘を登ると、青々とした木々が2列にずらりと並ぶ遊歩道が現れる。


 その道で爽やかな空気を深く吸い込みながらさらに登っていくと、打ち捨てられた空き地に着く。


 片側の壁は苔に覆われ、不気味な雰囲気を漂わせている。


 ぼろぼろのテニスボールとシャトルコックが地面に散らばり、半分壊れた運動器具は踏み板だけがぎいぎいと音を立てている。


 壊れた街灯の下には、街を見下ろす長いベンチがある。


 いつからか、そのベンチを訪れる客は花びらと雨、落ち葉、雪だけになり、僕はつい最近訪れるようになった客だった。


 けれど、新しい客は僕一人ではなかった。


 秋のあいだに積もった落ち葉を片側へ押しやって腰を下ろし、ソウルの街を見下ろした。


 高速道路には車がびっしりと並び、工場の煙突は汚れた雲を吐き出していた。


 さらに目を凝らせば、出勤する人々の姿が見える。


 ここから眺めると、黒い文字のようだった。


 特に今のような出勤時間帯に見下ろすと、3、4行の文章くらいは簡単に完成する。


 都市という紙の上で、人々は全身を使って忙しく文字を書いている。


 終わりの見えない、永遠の執筆のように感じられることもあった。


 もちろん、彼らの執筆を嘆いたり、非難したりするつもりはない。


 あの群れから逃げ出した僕に、そんなことを言う資格はないだろうから。


 ただ時折、こうして座り、そのあいだに分かち書きのように空白を作る白い匂いを、残念に思いながら数えてみるだけだ。


 けれど最近、そのあいだに赤い線を引きながら、文章を横切る存在がいる。


 僕はもう、この事実を認め、きちんと言葉にするときが来た。


 薔薇の香り。


 白い匂いは遠ざかれば消える。


 けれど、薔薇の香りは違った。


 一日中、僕のそばを漂っている。


 一輪分ほどの量だった。


 錯覚ではないと認めてから、僕はしばらくのあいだ、あの視覚障害者のように明晰夢を見るようになった。


「現実に変わる夢です」


 幼い頃、僕が視覚障害者に言った言葉だった。


 夢の中には、薔薇の香りがない。


 そのことに真っ先に気づいて、ようやく夢が始まる。


 安堵と恐怖を同時に覚える。


 薔薇の香りは消えたけれど、それが夢だという事実に安堵し、一生夢から覚められないのではないかと恐れる。


 時折、遥かな水平線に囲まれた平原で、僕は辺りを見回す。


 落ちる場所や、ぶら下がれる場所を探して彷徨う。


 夢から覚めるために、死を切実に願う。


 あるいは、僕の白い匂いを嗅いでくれる誰かを必死に探す。


 やがて明け方のいつか、僕は暗い部屋へ戻ってくる。


 薔薇の香りと白い匂いは、その点が似ている。


 僕に、夢を見ることを怖がらせる。


 もちろん、夢から覚めたときに慰めてくれるのは、薔薇の香りだ。


 香りの先には、間違いなくタンミという女がいる。


 ぼんやりと漂うこの赤い線を辿っていけば、彼女に辿り着くはずだ。


 目を覚ました明け方のたびに飛び出していきたい衝動に駆られたけれど、僕はかろうじて理性を保った。


 けれど、心のどこかではわかっていた。


 僕は結局その衝動に打ち勝てず、近い未来に欲を出すのだろうと。


 でも今、以前より遥かに遠い場所にいる。


 1週間前、女はそこからメッセージを送ってきた。


 女は、帰ってくる日を決めた。


 そのことが、どれほど嬉しかったことか。



『一週間後に会いましょう :) 』



 もしかすると、今もこっちの方を見ているのかもしれない。


 僕は遥か遠くを目で探ってみた。


 方向を正確に捉えたという確信が持てると、目を閉じた。


 それでも同じだった。


 まだだった。


 僕は片側へ押しやっていた落ち葉を均等に広げ、丘を下った。


 丘を半分ほど下ったところで振り返った空は、まだいつもの空だった。


 そして、あまりにも高かった。

#読んでいただき、ありがとうございました!

ブックマークや評価「☆☆☆☆☆」で応援していただけると嬉しいです!

よろしくお願いします!


※もし韓国語を勉強している方や、韓国語に興味のある方がいらっしゃいましたら、お気軽にメッセージをください。韓国語の原文をお送りします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。