ライラック 15
私は韓国人の小説家です。
2年前に出版した自分の小説を日本語に翻訳し、こちらで連載することにしました。
不自然なところがあったりするかもしれませんが、楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。
ありがとうございます。
3時間前、女は1階に着いた。
それからというもの、薔薇の香りは少しも動かなかった。
人々はとっくに全員、ビルから出ていた。
『リスボンへの夜行列車』に貼った紫色の色紙を剥がした。
さらに4時間が流れると、僕は焦り始めた。
薔薇はその場でそよそよと体を揺らしていた。
この香りは錯覚なのではないかという疑問が浮かんだ。
あるいは、また別の死なのではないか?
僕がずっと必死に無視してきた死。
僕は呟いた。
自殺。
死には、もともと2種類ある。
望む死と、望まない死。
匂いにも、今や2種類ある。
薔薇の香りと、白い匂い。
ふと、女はもう自殺しているのではないかという、ぞっとするような考えが浮かんだ。
実は揺れているのは匂いではなく、女の体だったのだ。
僕は居ても立ってもいられず、狭い空間を彷徨い始めた。ブックカフェと貸出室を20回は行き来した。
ブックカフェの外へは出なかった。女が1階に着いてから、白い匂いが廊下に充満していたからだ。
その匂いがかえって不安を鎮め、僕を慰めてもくれた。
「それなら、白い匂いも全部消えているはずだから」
僕はそう言った。
少し待った。
けれど、死は答えない。
死が何も言わないという意味ではない。
むしろ、とてもおしゃべりだ。
ただ、答えない。
数え切れない問いかけにも、自分の言いたいことだけを並べ立てる。僕は長いあいだ聞いてきたから知っている。
けれど、死の言葉に耳を傾けない人などいない。
その甘く好奇心をくすぐる囁きを、あえて無視できる人など。
結局、負けるのは僕だった。
自分が勝つ戦いだということを、死はよく知っている。
だから、変わるはずがない。
死が変われば、それはもはや死ではないのだから。
うんざりする匂いに悪態をつきながら、カバンに荷物を詰め込んでいるあいだも、そんな考えが頭の中を埋め尽くしていた。
確かめなきゃ。
でも、本当に立ち向かえるだろうか?
ただ逃げ出してしまうだけなんじゃないか?
僕は目をぎゅっと閉じて、確かめてみた。
薔薇は今も悪臭の中に咲いている。
僕の頭の中にも、いくつもの考えが咲き始めていた。
廊下の天井に根を下ろし、そよそよと揺れる女を?
床に長く伸びた影が僕の足に触れても、逃げずにまっすぐ見上げることができるだろうか?
もし今、目を開けたら、あのときのように家のリビングが目の前に広がっているのだろうか?
震える両足と、荒い息遣いとともに?
どうせ通らなければならない道だ。
けれど、全身を震わせる鼓動はなかなか収まらなかった。
僕は追われるように歩いて出ていった。貸出室の明かりを消すと同時に、扉に鍵をかけた。
空はすでに24のピースがすべて埋まり、さらに2、3ピースが加わった頃だった。
本たちは慌ただしく動く僕の姿を眺めていた。
そして、ブックカフェを出ようとした、その瞬間だった。
白い匂いが開いた扉の隙間から入り込んできた、その瞬間だった。
赤黒い何かが視界の端に触れた。
僕は後ずさりして少し戻り、そちらへ顔を向けた。
本棚に並んだ『死の収容所で』を見た。
赤黒い本は、著者の体に刻み込まれた傷痕のようだった。
よろめく足取り。
収容所。
やせ細った体。
焼けるような鞭打ち。
そのすべてを、両手で掴んだ。
「これは、いったい……」
一体、いつ。
彼女が撮ったピースに夢中になっていたとき?
本は次第に重くなっていった。それにつれて、僕の体も少しずつ床へ近づいていった。
そのとき、鋭い機械音が響き、僕は耳を澄ませた。
開いた扉のほうを見つめた。
1階の天井に咲いていた薔薇は、いつの間にかエレベーターから降りてきて、こちらへ向かっていた。
白い匂いが廊下をさらに濃く染め上げた。コツコツと、白い足跡を残していった。
四角い廊下に長い影が現れたとき、息が止まりそうになった。
やがて、生きている女が目の前に現れた。
薔薇の香りは、先日とは比べものにならないほど濃厚だった。
そして、声が聞こえた。
「こんばんは」
女の片手と僕の両手は、同じ本を握っていた。
目は唇ほど笑っていなかった。
両頬と鼻先が赤みを帯びていた。
女は唇のあいだから白い息を吐き出した。
それが死なのか、冬なのかわからなかった。
僕は慌てて本を元に戻し、ぎこちない姿勢で女と向き合った。
「こんばんは」
女は何も言わず僕のそばまで近づくと、本を掲げて見せた。
そして、僕がたった今戻した本と並べて収めた。
2冊の本の距離と同じくらい、僕たちは近くにいた。
彼女はにっこりと笑った。
僕は熱くなる首を撫でた。
「本、どうでした?」
「いい本でした。一気に読み終えるのがもったいないくらい」
女は本を見つめた。
「少し辛くもありました。胸が痛む内容が多くて」
僕は小さく頷いてから、はっとした。
「ソファさんの書評、読みました」
僕の名前は、彼女の名前ほど珍しくはなかった。
「ソファさんですよね? この前、書評を書いたって言ってたじゃないですか。この本の書評を書いた人、ソファさん1人だけでしたから」
覚えていなかった。
あのときの記憶には、顔と匂いと声しかなかった。
僕はいつの間にか、彼女の目をまっすぐ見つめていることに気づいた。
「はい、そうです」
白い匂いを漂わせる人の目。
とてもきれいだった。
数秒が流れ、僕の視線が足元へ落ちたとき、どこか違和感を拭えなかった。
「ところで、今日、旅行に行くって言ってませんでしたか?」
「はい、そうです」
僕の視線が肩にかかった小さなバッグへ上がると、女が言った。
「今回の旅行は、荷物はこれだけです」
「どうしてですか?」
僕は不安な様子を隠そうと努めた。
女はためらった。
「帰ってくる日を決めてないからです」
僕はブログを思い出した。
丸24時間、一つの場所に留まり、カメラに近づいたり離れたりする女の姿を想像した。
そして確信した。
女はそのあいだ、一度も笑わなかったのだと。女は無表情で、それをやり遂げた。
そして、数え切れない写真のどこにも、女はいなかった。
空っぽの最後のピースは、自分の写真で埋めるつもりだったのかもしれない。
「どこの国へ行くんですか?」
その言葉に、女は目を丸くした。
「どうしてそう思うんですか? 私、海外に行くとは言ってませんけど」
「ただ、そんな気がするんです」
僕はその言葉を繰り返すだけだった。
「何となく。ただ、何となく。」
「そうなんですね」
女は少し間を置いた。
「そうすればよかったかな?」
僕は我慢できなかった。
「じゃあ、どこへ行くんですか?」
「麗水です」
思いもよらない行き先だった。
「恥ずかしいんですけど、国内旅行は初めてなんです。
特別な理由はありません。
近くの夜の海辺を一晩中歩きたい、それから日の出を見たい、そのくらいです。そうやって検索したら、麗水が一番上に出てきたんです。
本当はもっと早く出発するはずだったんですけど、寝坊して電車に乗り遅れちゃって。すぐ次の切符を予約しようとしたんですけど、やっぱり先に本を返却しようと思って。ソファさんと約束していたので」
「ああ、そうだったんですね」
『嘘だ』
「ありがとうございます」
「はい、それじゃ」
女は袖をまくり、時計を見た。
「そろそろ行きますね。電車の時間なので」
「今すぐですか?」
女は半分ほど頷いた。
次の瞬間、女が背を向けるだろうと思った。
けれど、女は僕の横を通り過ぎ、ブックカフェの奥へ入って来た。
そして、振り返った。
女は初めて会ったあの日、あの場所に立った。
女は扉の向こうと僕を交互に見た。
笑顔の奥で、また別の嘘が生まれていた。
「また来ますね」
その言葉を最後に、女は少しもためらうことなく、僕の背後へ消えた。
声は床で散った。
白い匂いは少しずつ薄れていった。
けれど、薔薇の香りはますます濃くなっていった。
女は遥か彼方へ沈み始めると、やがて僕の足元を通り過ぎた。
僕は周囲を見回し始めた。
ほんの数分しか経っていないのに、多くのことが変わっていた。
夢を見たような気がした。
僕は2、3回瞬きをしてから顔を向けた。
赤黒い本が2冊、並んで置かれていた。
夢ではなかった。
もう一度、扉のほうへ顔を向けた。
女と初めて会ったあの日、僕が入ってきたあの扉だった。
四角く開いた、真っ白な扉。
もうすぐ消え去る扉。
最後のピース。
僕はその前に立った。
初めてあの写真を見たときとは違い、ためらわなかった。
いつものように、ひどい悪臭が鼻の奥へ食い込んだ。
それでも、僕は再び彼女が作った世界へ飛び込んだ。まだどのピースも埋まっておらず、ただ白いだけの世界だった。
いつの日か、24のピースが埋まるだろう。
けれど、女が撮った写真とは一つだけ違うところがある。
そこには、死があった。
階段で、ひたすら体の向きを変えた。
今度は右へ。
けれど、今回は前に道しるべがあった。
僕がしつこく追いかけると、赤い線はついに方向を変えた。
突然目の前に現れた扉を勢いよく開けた。
僕は1階の廊下へ倒れ込むように飛び出し、体を起こした。
霞んだ廊下の両端を見回して薔薇の香りを確かめると、遠く玄関のほうから誰かが話す声が聞こえた。
僕は大股で匂いと囁きを追って歩き、角を曲がった。
女は自分より少し背の低い男と向かい合って立っていた。
おそらく、別れの挨拶を交わしているところだった。
警備員のおじさんは女の肩に置いていた手を下ろし、反対側へ歩いていった。
その後ろ姿を追っていた女の悲しげな目が、僕へと移ってきた。
僕は一度息を整え、不安げに揺れるその視線を追って歩いた。
薔薇の香りが、僕を引き寄せた。
やがて、僕は彼女の前に立った。
女の口が開いている。
「ソファさん、大丈夫ですか? 汗、すごいですよ」
女は、小さなバッグの中を探り始めた。
僕は、散らかった言葉の中を探った。
女が麗水へ行って、具体的に何をするのかはよくわからない。
本当に夜の海に沿って空虚な浜辺を歩くのか、それとも似たようなどこかで首を吊り、体を揺らすのか。
けれど、今だけは一人の命を救おうなどという大それたことは考えないことにした。
まずは、彼女に帰ってくる日を作ってあげたかった。ただ、この人にもう一度会いたかった。
だから、言わなければならない。
「旅行が終わったら、僕と話しませんか?」
女は手を止め、視線を上げた。
僕は次の言葉を口にした。
実は、最初に選んだ言葉ではなかった。
「こんなふうに偶然会うんじゃなくて、僕たちが決めた場所と時間で。
話したいことがたくさんあります。
その中には、僕の秘密もあります。すごく変な秘密なんですけど、きっと面白いと思います。
タンミさんにもあるんじゃないですか? 誰かに話したいこと。
秘密。
きっと、あると思います」
僕が言ったのは、それだけだった。
それを聞いた女は、驚いた様子を見せなかった。
僕は答えを待ちながら、最初に飲み込んだ言葉を思い出した。
『あなたは、もうすぐ死にます。
あなたも、その事実を確かに知っています。そうでしょう?
僕は、もうすぐ死ぬ人の匂いを嗅ぎ取ります。ずっと長いあいだ、こうして生きてきました。
嘘だって?
あなたには本当に、この匂いが嗅げないんですか?
あなたに初めて会ったとき、ビルが真っ白に沸き立っていました。
僕の人生で、たった1人だけこんな匂いを漂わせた人がいたけれど、あなたもそれほど特別な人なのかもしれないです。
あるいは、あなたの死が特別なのかもしれません。
理由はまだわからない。知りたい。
あなたの死を、僕に話してください。
驚かない自信があります。僕が聞いてあげます。
いや。辛いなら、無理に話さなくてもいい。もう知っているから。
だから、何でもいいから話してください』
僕は考えるのをやめた。
女が口を開いたからだ。
最初は薔薇の香りだった。
次第に濃くなった。
何かが絶え間なく語りかけている。
今、この瞬間も。
だからこそ、僕は答えを実際に耳で聞くより先に、笑い出すことができた。
女はもう一度言った。
「いいですよ」
女は両手で顔を覆った。
涙を堪えていた。その姿を僕に見せまいとしていた。
女はゆっくりと去っていった。
僕は彼女を見送り、しばらくその場に立っていた。
やがて、ビルに真夜中の闇が訪れた。
中では小さな金属が互いにぶつかり合い、扉が開いたり閉じたりする音が中を歩き回っていた。
やがて、ブックカフェの明かりがぱっと消えた。
ビルは眠りについた。
僕は踵を返し、家へ向かった。
絶え間なく濃くなっていく薔薇の香りを嗅ぎながら。
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