ライラック 11
私は韓国人の小説家です。
2年前に出版した自分の小説を日本語に翻訳し、こちらで連載することにしました。
不自然なところがあったりするかもしれませんが、楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。
ありがとうございます。
「ただ、その女に惚れたんじゃないのか?」
僕はジェヒョクをじっと見つめた。
僕たちは夕飯をたらふく食べ、ワインを飲んだ。
ジェヒョクはワインが大好きだ。高校生の頃から飲んでいて、主にこのリビングで飲んでいた。匂いが嗅げないと打ち明けてから数日後、ジェヒョクは怪しげな細長い瓶を片手にやって来た。
「お前も気に入るよ。嗅覚を取り戻してくれる薬だから」
もちろん、僕は信じなかった。
高校を卒業してからも、ときどきそんなふうに押しかけてきた。胃がひりひりして頭がくらくらするたびに、人はどうしてこんなものを飲むのだろうと疑問に思ったけれど、今日は少しわかるような気もした。
僕がよほど呆れた顔をしていたのか、ジェヒョクが気まずそうに付け加えた。
「いや、ほら、よく言うだろ。一目惚れすると、その人が後光を放って見えるとか、そういうの」
「俺が誰かに惚れるような人間に見える?」
「それはわからないだろ」
「わかってるだろ」
「違う。俺じゃなくて、お前にもわからないってこと。ワインが酒だとも知らずに飲んだ、あのときみたいにな」
ジェヒョクが急に真剣な顔をした。
「また哲学の授業?」
僕は皮肉った。
「お前、それまでは何だって疑ってただろ。自分の体の中に入っていくものまで疑って、くだらないものだと思ってた。でも酒っていうのは、疑おうにも疑えない、ものすごく強烈な存在なんだ。心の底に隠しておいた本性を引っ張り出したり、絶対に変わらないような人間さえ一瞬で別人にしたりする。お前だって例外じゃなかった。そりゃもう、ひどい有様だったよ」
「それは、お前が騙したからだろ」
「違う」
ジェヒョクは空のグラスにワインを注いだ。
「お前は絶対にわかってた」
「酒だと知ってたら、そもそも飲まなかったよ。案の定、ひどく不快な経験だったし」
「じゃあ、なんで次の日、俺に隠れてまた飲んだんだ? ぶどうジュースを入れとけば俺にばれないとでも思ったのか? 俺には嗅覚があるんだぞ」
「それで、何が言いたいの?」
「俺だって同じだよ。わからないことだらけだってこと」
ジェヒョクは口元に笑みを浮かべた。ずっと待ちわびていたかのように、この瞬間を楽しんでいた。
「でも今の彼女と付き合って、それに毎年新しい子供たちと出会ってると、ほんの少しずつ、自分でも知らなかった一面が見えてくる。嗅覚にたとえて話そうか?」
ジェヒョクは最後の一杯を一気に飲み干した。
「俺には、お前と違って嗅覚がある。でも、その感覚は本当に隙間なくぎっしり埋まってるのか? いや、この世はまだ俺の知らない匂いだらけだ。感覚という空間がワインボトルだとしたら、俺が知っている匂いなんて、せいぜいこの一杯、いや、一滴に過ぎないかもしれないってことだ。もちろん、この一滴だってお前と比べれば、途方もない差だろう。失ったことのない俺には絶対にわからないけど、お前にはよくわかるはずだ。でも、俺の感覚だってお前に引けを取らないくらい、かなり空っぽだってことだ。だから、簡単に言うと……」
僕がグラスを持ち上げると、ワインがゆらゆらと揺れた。
酔いが回り、鼻が熱くなった。
丸い紫色。
「もう一度、会ってみろよ。ちょうど、そういう人が必要なときなんじゃないかって思ったんだ。それに、薔薇の香りなんだろ? そんな匂いが何の理由もなくするわけないだろ。それが花の香りなら、なおさらいい。そもそも人間なんて、香りがきっかけで惹かれ合うことだって珍しくないんだから」
「でも、白い匂いも違った。ビル全体を埋め尽くすくらいひどかったんだ。あんな匂いは、母さん以来初めてだよ」
「何?」
ジェヒョクの顔が一瞬で強張った。
「その匂いもしたっていうのか?」
甲高い反応に、僕ははっとした。
薔薇の香りの話に夢中になりすぎて、この話はしていなかったっけ?
「ああ、言ってなかったんだ。薔薇の香りより先に、白い匂いを嗅いだんだ。普通の匂いじゃなかった。目の前に漂って見えるくらい濃くて、それに……」
僕が言い終わる前に、ジェヒョクは空のグラスを口元へ運ぶと、投げ捨てるように置いた。
そんなジェヒョクの反応が、僕には不思議だった。
僕が時折白い匂いの話をすると、ジェヒョクはいつも冷淡に反応をするか、興味がないかのように露骨に話題を変えた。そんな匂いがしようがしまいが、気にするなと口癖のように言うこともあった。
「だったら会うな。絶対に」
ジェヒョクはきっぱりと言った。
僕は聞き返した。
「なんで、急に?」
「なんでって、死の匂いがしたんだろ?」
「さっきは会ってみろって言ったじゃないか」
「それは、その人が死なない場合の話だろ」
僕の声にも感情がこもった。
「急にどうしたんだよ? 俺はもともと、そういう人たちの中で生きてきたって、知ってるだろ。どこへ行っても、誰に会っても、ずっとそうだった。一日中ベッドに寝てたって同じだよ。死にかけてる人たちが何度も窓の下を通り過ぎるんだから」
「あの人たちとは違う。身近な人の死と、知らない人の死じゃ次元が違うんだよ。お前、その匂いに慣れすぎてるんじゃないのか?」
「なんでそこまで話が飛ぶんだよ。ただ話すくらいならいいだろ。俺はあの匂いが気になるだけだって言ってるだろ?」
「もうすぐ死ぬ人が好きだっていうのか?」
「好きだなんて言ってない!」
ジェヒョクは席を蹴って立ち上がった。僕の横を通り過ぎてキッチンへ向かい、食器棚を開けると、奥深くに隠してあった赤ワインを取り出した。そしてコルクを抜き、咳払いをして、再び僕の前に座った。
声が静かに落ち着いた。
「とにかく、お前が言ったんだろ。その匂いがすると、人が死ぬって。わざわざ死ぬ人と会うくらいなら……」
「母さんは違っただろ」
ワインを注いでいたジェヒョクの手が止まった。
「母さんは完治しただろ。俺が教えたおかげで」
僕たちは、そのまま動きが止まった。
ワインが自らグラスを満たした。
傾いたワインボトルが、中に入っていた感覚を余すところなく吐き出した。グラスを飲み込むように、外へ溢れ出した。
その瞬間、僕は扉が開くことを願った。
今でも、あの音を覚えている。
扉がガチャリと開く音と、視覚障害者が立ち上がる前に杖で床をトントンと叩く音。
けれど、母はすでに亡くなっていた。
ふと、ふくらはぎに触れるひんやりとした感触に目を落とした。ワインが足を濡らしていた。
先に動いたのは僕だった。
引き出しから乾いたタオルを取り出し、床に広がっていく黒紫色を拭いた。
ジェヒョクはまだ過去を見ていた。空っぽの感覚を握ったまま。
僕は後悔した。
ジェヒョクに2つ目の秘密を打ち明けたのは、20歳を目前にした冬のことだった。
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