第七楽章 「神の知略、いたずらに咲く」
安宿の硬いベッドに横たわりながら、カイルは窓の外に広がる見知らぬ街の夜空を眺めていた。
隣のベッドからは、ミナトの無防備な寝息が聞こえてくる。
(……静かすぎるな)
かつて家族と過ごしていた夜は、もっと賑やかだった。
ガイアスのいびき、リュミとエトが寝言で競い合う声、それらを優しくたしなめるセシリアの気配。自分を「お父様」と呼び、頼ってくれる存在が常に隣にいた。
今のカイルを支配しているのは、家族を守れなかったという自責と、彼らがもうこの世界にいないのではないかという、神としての知略さえ曇らせるほどの恐怖だ。
ふと、隣のベッドで大の字になって眠るミナトに視線をやる。
この少年は、カイルがどれほど絶望していようと、どれほど冷徹な仮面を被っていようと、そんなことはお構いなしに「カイルさーん、腹減ったっす」などと抜かしてくる。
その「不敬」で「緊張感のない」存在が、皮肉にもカイルを暗い思考の檻から引きずり出していた。
(……少し、毒気を抜かれたかな)
カイルは自嘲気味に口角を上げた。
かつての自分が、どうやって仲間たちと笑い合っていたか。どうやって自分自身の「完璧主義」という呪いから逃れていたか。
その答えはいつも、真面目な努力ではなく、こうした「無駄な遊び」の中にあったはずだ。
カイルは指先を動かし、ミナトの周りの空気を、細い糸を紡ぐように編み始めた。
少年の動きを制限する術。本来なら強大な魔物を封じ込めるための技術を、ただ「明日の朝、ミナトが慌てる顔を見るためだけ」に浪費する。
その作業をしている間だけは、カイルの胸を苛む焦燥が、不思議なほど静まっていくのを感じていた。
◇
その日の朝、ミナトが宿屋のベッドで目を覚ました瞬間、何かが「おかしかった」。
「……あれ? 身体が……動かない?」
金縛りではない。意識ははっきりしているし、痛みもない。だが、どれほど力を込めても、布団から一歩も出ることができないのだ。まるで、身体の周りの空気だけが凝固して、自分を型に嵌めているような奇妙な感覚。
「うおっ、何これ!? もしかして、寝てる間に変な魔物の呪いでも受けたか!?」
パニックになりかけたミナトの耳に、部屋の隅から「ふっ」と、押し殺したような笑い声が聞こえてきた。
視線を向ければ、そこには椅子に深く腰掛け、見たこともないほど楽しげに口角を上げたカイルが座っていた。
「……おはよう、ミナト。随分と派手な寝相だったね。君があまりにも無防備だったから、つい少しだけ弄ってみたくなった」
「弄ってみたくって……カイルさん! これ、あんたの仕業かよ!」
カイルは指先を軽く鳴らした。
その瞬間、ミナトの身体を縛っていた不可視の圧力が消失し、勢い余ったミナトはベッドから床へと転げ落ちた。
「痛たた……。何すか今の! 初対面の時の、あのクールで怖いカイルさんはどこ行ったんすか!」
「失礼な。これは精密な魔力制御の訓練だよ。……それに、君の反応があまりにも期待通りだったからね」
カイルはクスクスと笑い続けている。
出会った頃の、人を寄せ付けない冷徹な仮面はどこへやら。今のカイルの瞳は、まるで悪巧みに成功したばかりの子供のように、いたずらっぽく輝いていた。
「はぁ……。先日のシリアスなカイルさんを返してくださいよ。……あれ、それ何食ってるんすか?」
ミナトが指差したのは、カイルが手に持っていた小皿だ。そこには、真っ黒でゴツゴツとした、お世辞にも美味そうには見えない『実』が乗っていた。
「これかい? この街の市場で見つけた『爆ぜ苺』という珍味だよ。見た目は悪いが、口に含むと驚くほどの甘みが広がるんだ。……一つ、どうかな?」
カイルが実に「善良な」笑みを浮かべて差し出す。
ミナトは少しだけ疑ったが、カイルが自分でも一つ口に放り込み、「うん、最高だ」と満足げに頷くのを見て、警戒を解いてしまった。
「……じゃあ、一個だけ。……パクッ」
口に入れた瞬間。
甘みなど微塵もなかった。代わりに襲ってきたのは、鼻の奥を突き抜けるような、超ド級の酸味と――。
――パチチチッ!
口内で小規模な爆発が起きるような、強烈な刺激。
「んがっ、ふがっ……ッ!? ひ、火、水をくれぇぇぇ!!!」
のたうち回るミナトを見て、カイルはついに声を上げて爆笑した。
「ははは! あははは! ミナト、君は本当に面白い! それは『爆ぜ苺』ではなく、魔力を帯びた『雷鳴果』だ。……さっき僕が食べたのは、一瞬で中身を本物の苺に書き換えたダミーだよ」
「……っ、この、性格の悪い神様……ッ!」
涙目で叫ぶミナト。だが、そんなミナトの罵倒を、カイルはどこか心地よさそうに受け流した。
家族と離れ、張り詰めていたカイルの心。
けれど、ミナトにいたずらを仕掛け、その「無様な笑顔(あるいは怒り顔)」を見ている時だけは、重い目的を背負う前の、一人の少年としての自分を、少しだけ取り戻せる気がしていた。
「……さあ、朝食は終わりだ。今日は隣の領都まで足を伸ばす。……足取りが重いなら、また空気を固めて、君を荷台に乗せて運んでもいいが?」
「結構! 自力で歩く!」
カイルの足取りは、昨日よりもずっと軽やかだった。
いたずらという名の、彼なりの信頼表現。
カイルとミナト。二人の距離は、街を後にする朝の光の中で、昨日よりも少しだけ近づいていた。ミナトはこんな奴に敬語を使うなんて馬鹿馬鹿しいと感じ、これを機に敬語を辞めたのでした。
「カイル!先に行くぞ!」
「はは、ミナトそっちの方が実に君らしいんじゃないか?」
「余計なお世話だ!」




