第三楽章 「焚き火の温もりと、少年の影」
木々の隙間から差し込んでいた残光が消え、森の境界線は深い藍色に塗りつぶされた。
街道へと続く緩やかな下り坂がすぐ先に見えていたが、カイルはそこで足を止めた。
「……今日はここまでだ。夜の街道を無策に進むのは、君の体力も、僕の神経も持たない」
その言葉を聞いた瞬間、ミナトはその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「た、助かったぁ……。カイルさん、マジで機械か何かかと思いましたよ……」
カイルは返事もせず、手近な枯れ枝を数本集めると、指先から小さな火を熾した。魔力による発火。現代人のミナトから見れば魔法だが、カイルにとっては呼吸をするのと同じ、日常の一部に過ぎない。
揺らめく炎が、二人の顔を照らし出す。
カイルは焚き火の反対側に座り、無言で火を見つめていた。その瞳は、昼間よりもずっと深く、そしてひどく寂しげだった。
森を抜ければ、そこには人の営みがある。そうなれば、この奇妙な「ノイズ」ともお別れだ。そう決めているはずなのに、カイルの胸には形容しがたい重みが居座っていた。
「……あの、カイルさん。無理に話せとは言わないすけど」
ミナトはカバンから、唯一の食料であるコンビニのパンを取り出し、半分に割って差し出した。
「これ、俺の世界の食べ物なんですけど……毒とか入ってないんで、食べません? カイルさん、さっきからずっと、なんて言うか……『心ここに在らず』って顔してますよ」
差し出された白いパンを、カイルは怪訝そうに見つめた。
知略家として未知の物質を警戒すべきだと頭では分かっている。だが、ミナトの琥珀色の瞳に向けられた真っ直ぐな視線に、カイルはふっと自嘲気味に笑った。
「……毒を盛るなら、もっとマシな演技を身につけることだ。君は、嘘をつくのが下手すぎる」
カイルはパンを受け取り、小さく口に運んだ。
かつてガイアスと食べた泥まみれの食事や、セシリアが作った完璧な料理とも違う、不思議に甘くて柔らかい味。
「……カイルさん。何か、大事なものを失くしたんですか?」
ミナトの言葉は、あまりにも唐突で、土足で踏み込むような無遠慮さだった。
カイルの肩が、微かに強張る。
「……なぜ、そう思う」
「だって、さっきからずっと遠くを見てるし。俺がこれだけ喋りかけても、心は別の場所にいるみたいだ。……もし、俺がトラックに跳ねられた時みたいに、カイルさんも無理やりここに飛ばされたんなら、俺と同じだなって」
カイルは沈黙した。
普段の彼なら、冷酷な言葉でミナトを黙らせ、距離を置いていただろう。
けれど、夜の静寂と、ミナトの放つ「現代人ゆえの緊張感のなさ」が、カイルの警戒心を少しずつ溶かしていった。
「……家族がいたんだ」
ぽつり、と。カイルの口から、自分でも驚くほど幼い声が漏れた。
「あいつらは、僕がいないとダメなんだ。僕が守らなきゃいけない。……それなのに、僕は一人でここにいる。半分神様だと言ったところで、結局はあいつら一人すら救えなかった」
カイルは膝を抱え、その上に顎を乗せた。
白銀の輝きも、元勇者の威厳も、今の彼にはない。
そこにいたのは、ただ大切な家族を想って震える、一人の不器用な少年としての姿だった。
「……なんだ。カイルさん、ただの『心配性なガキ』じゃないっすか」
「……ガ……ッ!? 君、神である僕に向かって何を……!」
カイルは反射的に声を荒らげたが、ミナトは怯えるどころか、ケラケラと愉快そうに笑っていた。その屈託のない笑顔は、カイルがこれまで対峙してきた「敵」や「畏怖を抱く民」のそれとは、あまりにもかけ離れている。
「いいじゃないですか。最強っぽいカイルさんが、俺みたいに情けなく悩んでるのを見て、ちょっと安心しましたよ。……決めた。俺、カイルさんがその『家族』に会うまで、勝手について行きますから」
「……断る。集落に着いたら、君とはお別れだ」
カイルは突き放すように言って、顔を膝に埋めた。
本当は、胸の奥を鋭い痛みで刺されたような気分だった。家族を失ったという事実に、ようやく心が追いつき始めている。本来なら、神権を操る神々の端くれとして、こんな場所で惨めに座り込んでいる場合ではない。一刻も早く痕跡を辿り、仲間と合流しなければならないというのに。
(僕は……怖いんだ)
もし、この世界のどこを探しても、彼らが見つからなかったら。
もし、あの時の歪みが、彼らの存在そのものを消し去っていたのだとしたら。
頭の中で最悪の可能性を計算してしまうたび、カイルの思考は黒い霧に阻まれる。
「いやいや、命の恩人を一人で行かせるなんて、現代っ子の名が廃りますよ。それに、カイルさんは頭が良すぎて、一人だと考え込みすぎて死んじゃいそうだ」
ミナトはそう言って、焚き火に新しい薪をくべた。
パチ、と爆ぜた火の粉が夜闇に溶けていく。
「……君は、気楽でいいな」
「気楽に見えます? これでも俺、さっきまで魔物に食われかけて、人生の走馬灯上映のチケット予約しそうになってたんですよ。……でも、一人じゃないってだけで、意外と人間、なんとかなるもんっすね」
ミナトはそう言うと、カバンの端を枕代わりにして、焚き火のそばに寝そべった。
「じゃ、俺、寝ます。カイルさんも、あんまり夜更かししてると、朝起きた時に老け顔になりますよ?」
「……僕は、不老だ」
「はいはい。おやすみなさい、カイルさん」
数分もしないうちに、ミナトの鼻から規則正しい寝息が漏れ始めた。
カイルは呆れたように大きなため息をつき、火を見つめる。
苛立たしい。実に苛立たしいノイズだ。
出会ったばかりの、名前すら知らなかった少年に、これほど心を乱され、そして――これほど安らいでいる。
もしミナトがいなければ、カイルは今夜、自分を責める暗い思考の檻に閉じ込められていただろう。
けれど、隣で情けない寝顔を晒している「異物」の存在が、魔法の温もりよりも確実に、カイルの心を現世へと繋ぎ止めていた。
(……一晩だけだ)
カイルは自分にそう言い聞かせ、瞳を閉じた。
明日、街に着けば、この少年を安全な場所へ送り届け、自分は再び孤独な旅に出る。
それが正しい「神」の、そして「元勇者」の判断だと確信しながら、カイルはいつの間にか、数刻前までの絶望が少しだけ和らいでいることに気づいていた。
こうして、二人が初めて共に過ごした夜が、静かに更けていった。




