第二楽章 「噛み合わない二人」
ザッ、ザッ、とカイルは迷いのない足取りで下草を跳ね除けて進む。
意識の端では常に、かつて神として世界を観測していた頃の感覚を研ぎ澄ませていた。空間が歪んだ際の残滓、神権が衝突した際の『痕跡』――それを辿れば、家族の誰かの居場所へ繋がるかもしれない。
一秒でも惜しい。焦燥が、冷たい刺青のように胸の奥で疼いていた。
「ひ、ひぃぃ……待ってくださいカイルさん! そこ、今なんか動きましたって! 絶対なんかデカい虫とかいましたよ!」
背後から聞こえる情けない悲鳴。
カイルは振り返ることなく、眉間に深く刻まれたシワを隠しもせずに吐き捨てた。
「……黙って歩けと言ったはずだ、ミナト。魔物を呼び寄せたいのか?」
「いや、無理です! 沈黙に耐えられるのは選ばれし勇者様だけですよ! 俺みたいな一般人は、喋って自分の存在を確認してないと、この森のオーラに飲み込まれて消えそうなんです!」
カイルは立ち止まり、静かに背後を仰ぎ見た。
そこには、額に大粒の汗を浮かべ、ブレザーをボロボロにしたミナトが、膝に手をついて荒い息を吐いていた。
手には、先ほどからずっと握りしめている、透明な奇妙な筒――『ペットボトル』とかいうもの。
(……本当に、何なんだ、こいつも、この道具も)
神の眼で見れば、この少年の脆弱さは一目瞭然だった。
筋肉量は平均以下、魔力に至っては、この世界の赤子よりも薄い。生きるための技術も、死を覚悟した者の眼差しもない。
それなのに、この少年はカイルに対して「恐怖」を抱いていない。自分を救った『白銀』の力や、今の自分から漏れ出ているであろう殺伐とした空気を感じ取っているはずなのに、平気で愚痴をこぼし、情けない姿を晒している。
「カイルさん、さっきのあれ……やっぱり魔法ですよね? ドゴォォン! って。あんなの、俺の世界じゃCGでしか見たことないっすわ。カイルさんって、もしかしてこの国の宮廷魔術師とか、そういう偉い人なんですか?」
「…………」
カイルの瞳に、ふっ、と冷たい影が差す。
宮廷魔術師。そんな称号で今の自分を括られるのは、あまりにも滑稽だった。
「……あいにくだが、僕はただの旅人だ。君が想像するような立派な肩書きなどない。それに、あまり馴れ馴れしく質問を重ねるのはやめておけ。僕は君が思うほど、お人好しではないんだ」
突き放すような冷酷な声。
普通の人間なら、ここで顔を引き攣らせて黙り込むか、距離を置くはずだ。
だが、ミナトは「げぇっ、塩対応……」と小声で漏らしただけで、めげる様子もなく歩み寄ってきた。
「いや、分かってますよ。助けてくれた時に見えたあの銀色の髪……マジで綺麗だったし、普通の人じゃないオーラ、バリバリでしたからね。でも、そんなカイルさんが、こんな縁もゆかりもない俺を連れて歩いてくれてる。……案外、寂しがり屋だったりします?」
カイルの指先が、無意識にピクリと動いた。
寂しがり屋。
家族と引き離され、一人でいることに耐えられなくなりそうだった、今の自分の急所を、この少年は無自覚に、かつ正確に突いてきた。
「…………勝手にしろ。ただし、置いていかれたくなければ、口より足を動かすことだ」
カイルは再び歩き出す。
苛立たしい。実に苛立たしいノイズだ。
けれど――その騒がしさが、家族の名前を呼びたくて堪らなくなる自分の独白を、少しだけ掻き消してくれているのも、また事実だった。
◇
「……カイルさん。そんなにジロジロ見られると、さすがに照れるんすけど」
ミナトが苦笑いしながら、手に持った『ペットボトル』を軽く掲げた。
カイルの視線は、先ほどからミナトが一口飲むたびに、その透明な器に釘付けになっていた。
「照れる……? 何を言っている。僕はただ、その器の異常性に注目していただけだ。……それは硝子か? いや、これほど薄く、弾力がありながら、歪みのない透明度を保つ素材など聞いたことがない。それに、その『水』もだ。君の世界では、魔法も介さずそれほど純度の高い液体を常に持ち歩いているのか?」
「ああ、これっすか。これはただのコンビニの麦茶ですよ。素材は……ペットボトル。俺たちの世界じゃ、その辺に捨てられてるくらいありふれたもんです。魔法なんて高尚なもんじゃなくて、ただの工場生産品ですよ」
「工場……?」
カイルは内心で眉をひそめた。
神の眼で分析しても、その『ペットボトル』からは魔力の残滓が一切感じられない。つまり、これは純粋に物理的な技術だけで作られた、この世界の理の外にある物質だということだ。
神権で世界を書き換えたカイルですら、これほど「無機質で完璧な人工物」は見たことがなかった。
(やはり、こいつは単なる迷子ではない。この世界に属さない場所から来た、完全な異物だ……)
カイルは、ミナトが何気なくカバンにしまったスマホや、制服の独特な織り目にも鋭い視線を送る。
もし、自分の家族を奪ったあの『神』が、こうした未知の理を利用しているのだとしたら――。
「……ッ!」
思考が家族の喪失へと向かいかけた瞬間、カイルは奥歯を噛み締めた。
急激に冷え込んだカイルの気配に、ミナトがびくりと肩を震わせる。
「うおっ、急にシリアスモード……。カイルさん、もしかして俺の麦茶、飲みたかったんすか? 一口あげます? あ、でもこれ『間接』になっちゃうな……」
「……いらん。そんなふざけたことを言う余裕があるなら、早く歩け。陽が落ちる前に、少しでも見晴らしの良い場所へ出るぞ」
カイルは冷たく突き放し、再び歩みを速めた。
カイルにとって、ミナトは便利な「毒消し」だ。
彼が吐き出す意味不明な言葉、見たこともない道具、そして底抜けの「情けなさ」は、カイルを苛立たせると同時に、暗い自責の念に沈もうとする精神を強制的に現実に繋ぎ止めてくれる。
「うへぇ、スパルタだ……。異世界に来て一番最初のイベントが強行軍とか、どんな無理ゲーだよ……。あ、カイルさん! 待って! 靴の中に石が、石が入ったからストップ!」
「……置いていくぞ」
「冷たい! 白銀モードの時のお姉さん的な優しさはどこ行ったんすか!」
「お姉さんと言うなと何度も言っている!」
カイルの怒鳴り声が森に響き、驚いた小鳥たちが一斉に飛び立つ。
焦燥と、孤独。
それらを抱えながらも、カイルは背後で喚き散らす少年の存在に、ほんの、ほんの僅かだけ救われている自分に気づかない振りをしていた。
やがて、鬱蒼とした木々の合間から、黄金色の光が差し込み始める。
森の出口は、もうすぐそこまで迫っていた。




