第七楽章 「街道の雨と、家族の思い出」
山脈から吹き下ろした突風と、激しい落石の騒動が収まった後、街道を支配したのは、重苦しい湿り気を帯びた秋の雨だった。
西へ、大陸中央の山脈の麓へと進むにつれ、空は厚い雲に完全に覆われ、陽の光を地上から奪い去っている。一行は同行していた商隊と一時的に別れ、山脈の東麓に広がる断崖の影にある、古びた洞窟へと逃げ込んだ。
「……っかー、マジで散々な目にあったぜ。あの落石のあとにこの大雨かよ。異世界の洗礼にしてはハードすぎだろ、カイル」
ミナトは濡れた外套を脱ぎ、手際よく焚き火の準備を始めた。パチパチと爆ぜる火の粉が、冷え切った洞窟内に柔らかな安らぎを広げていく。
「……山脈の気候は気まぐれだからね。……今は、身体を休めることを優先しよう」
カイルは洞窟の奥で腰を下ろし、焚き火の炎を見つめた。その瞳には、先ほどの嵐の中で見せた鋭い神性はなく、どこか遠い過去を慈しむような色が宿っている。
「……なあ、カイル。あんた、さっき落石を防いだあと、変な顔してたろ。……やっぱり、この山脈ってあんたにとって嫌な思い出の場所なのか?」
ミナトの問いに、カイルは少しの間を置いて、静かに口を開いた。
「……嫌な思い出、というわけではないよ。ただ、あそこで僕は一度『完璧』になろうとして、人間であることを捨てた。……けれど、今の僕はこうして、君たちと泥にまみれて雨宿りをしている」
カイルは自らの手を見つめ、微かに微笑んだ。
「……皮肉なものだね。でも、あんな不完全な時間があったからこそ、今こうして君たちと笑い合える……。そう思えるようになったのは、最近のことだよ」
その、あまりにも「人間らしく」て、どこか寂しげで温かな独白。
洞窟の中がしん、と静まり返る。ミナトがその言葉の重さに柄にもなく感動しかけた、その時だった。
「……ふふ。……勇者様、いいこと言った。……でも、その『ふかんぜん』な時間のなかで……勇者様、いっちばん、なさけないこと、したよね?」
フローラが、コップを持ったままクスクスと笑い出した。
「おい、フローラ! さっきの感動的な流れをぶち壊すようなこと言うなよ! ……え、何、気になるじゃねぇか。カイルの情けない話ってなんだ?」
「……フローラ。もういい、その話はやめなさい。……歴史の闇に葬るべきだと言ったはずだよ」
カイルが本気で、かつてないほど切実な声で遮るが、フローラは止まらない。
「……勇者様。みんなに『ありがとう』って言ったあと。……わざと、すごい激辛のカレー、つくったの。……ガイアスが池に頭を突っ込んでるあいだに……屋敷中のトイレットペーパー、ぜんぶ回収して、屋根裏に隠れちゃった」
「……ぶっ!!」
ミナトがスープを吹き出した。
そこからは、フローラによる「阿鼻叫喚の紙なき聖域」の暴露が始まった。カイルが袋を抱えて川へ逃走し、一巻きだけ手に持って「欲しいなら『ぷにゅっ』と言ってごらん?」と魔王を弄り倒したこと。そして、フローラの一言に動揺して、全ロールを川に流して自爆したこと。
「……最後は、アヒルさんに乗って、空に逃げていったんだよ。……『僕はアヒル艦隊の指揮官だー!』って、お腹かかえて笑いながら」
「ぎゃはははははは!! お前、何が『不完全な時間があったからこそ』だよ! ただの『全てを水に流した男』じゃねぇか!!」
ミナトが洞窟の壁を叩いて笑い転げる横で、カイルは真っ赤になった顔を両手で覆い、完全に沈黙した。
「……ああ、やっぱり『ありがとう』なんて殊勝な言葉より、……こうやってくだらない話を笑い飛ばしている方が、僕たちにはお似合いだよね」
カイルが消え入るような声で自嘲気味に呟いたその言葉は、確かに「不完全」で、けれど最高に温かな家族の体温に満ちていた。
「……よし。カイル、お前がどれだけ情けなくて、最高な奴かよく分かった。……行こうぜ、北へ。……カーテン魔王に負けないくらい、デカい声で、みんなに『ただいま』って言ってやろうぜ」
雨の洞窟の中、三人を包む空気は、いつの間にか「あの屋敷」と同じ幸せな温度に満たされていた。




