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第六楽章 「山脈の吐息、あるいは過去の残照」

 領都を出発して四日目。

 街道を西へ、大陸の中央へと進むにつれ、周囲の景色はその色を失い始めた。

 行く手に立ちはだかる【星屑の背骨スター・スパイン山脈】は、もはや遠景の飾りではない。天を突くような黒い絶壁は、太陽の光を正面から遮る巨大な壁となり、街道には日中であっても冷たく長い影が落ちている。


「……寒い。っていうか、この寒さ、マジで堪えるぜ。ただの冷え込みじゃなくて、風が皮膚を刺してくる感じだ」


 ミナトは外套の襟を合わせ、肩をすくめた。

 今は秋。冷え込むのは当然だが、山脈から吹き下ろす風は、不自然なほど鋭く、乾いていた。


「……ああ。この山脈は、四方から集まる魔力や大気がぶつかり合う場所だからね。麓の天候が荒れるのは、古くからのこの土地の性質だ。ミナト、あまり身体を冷やすなよ」


 カイルは足を止め、じっと正面を見据えた。

 その瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く細められる。視線の先、雲が渦巻く最高峰の頂には、かつて自分が半神としての儀式を行い、人間としての自分を葬り去った【真理の墓標】がある。


 カイルの手が、無意識に自らの胸元へと伸びた。

 かつて独りで、誰にも頼らず、ただ完璧な神になろうと足掻き、心臓を灼くような苦痛の中で「人間」を捨てたあの日。その傷跡自体は魔法で消えていても、魂に刻まれた「死」の記憶が、山から吹き下ろす冷気と共に、彼の胸をチリリと焼く。その指先が、微かに震えていたことを、隣にいたフローラだけが見逃さなかった。


「……ゆう、しゃ、さま。……においが、かなしい。……だれかの、泣いてるにおいがする」


 フローラがカイルの袖をぎゅっと掴んだ。

 獣人としての鋭い嗅覚が、風に混じる微かな「何か」を捉えたらしい。だがそれは世界の破滅などではなく、かつてこの地で流された涙の残滓――カイル自身の、古い心の傷跡を無意識に嗅ぎ取ったものだった。


 その時、突如として山脈の斜面から「ゴォォ……」という、大気が震えるような地鳴りが響き渡った。

 崖崩れ。あるいは、山の空気が急激に冷え込んだことによる落石だろう。

 

「――総員、岩陰へ! 伏せろ!」


 商隊長の叫びが響く。カイルは瞬時に一歩前へ出た。

 彼は意志を込め、自分たちの周囲に白銀の障壁を展開する。上空から降り注ぐ小石や雪混じりの突風を、カイルの力が静かに、けれど確実に弾き飛ばしていく。


 吹き荒れる嵐の中で、カイルはただ静かに、目の前の絶壁を見つめていた。

 かつて自分が「不完全なもの」として切り捨てたはずの、あの頃の自分の記憶。

 今、こうして仲間と肩を並べ、再びこの地を通っている自分を、かつての自分が見つめているような気がした。


(……僕は、変わったのだな)


 かつて独りであの頂に立っていた時には決して得られなかった、袖を掴むフローラの手の温もり。背後で商人を守ろうと奮闘するミナトの叫び。

 それらが、カイルの胸にある「神」としての冷徹な芯を、じわりと温かな「人間」の情愛で溶かしていく。


「……ふぅ、止まったか?」


 嵐が去り、カイルが結界を解くと、ミナトが「危ねぇ、寿命が三日は縮まったわ!」と騒ぎながら岩陰から飛び出してきた。


「助かったぜ、カイル! あんたがいなけりゃ、今ごろ俺たちは街道のデコレーションになってたところだ」


 ミナトの軽口に引きずられるように、商隊の男たちが次々と歩み寄ってくる。


「……恩に着るよ、兄ちゃん。あんた、ただの用心棒じゃねぇな」


「怪我はないか? ほら、気付けにこれを飲め」


 商隊長がガッシリとカイルの肩を叩き、感謝の言葉と共に温かい飲み物の入った水筒を差し出す。カイルは一瞬、戸惑ったように眉を動かしたが、やがて小さく頷き、差し出された厚意を受け取った。

 かつての「神」であった頃なら、見向きもしなかったであろう人間たちの泥臭い連帯。それが今のカイルには、何よりも確かな「世界の理」のように感じられた。


「勇者様……?」


 不安そうに自分を見上げるフローラの声で、カイルは我に返った。

 

「……大丈夫だ。ただの、山の気まぐれだよ。……フローラ、少し寒くなってきたね。僕の側にいなさい」


 カイルの声は、嵐の中でも驚くほど穏やかだった。

 やがて落石と風が止んだ後、街道に残ったのは、不自然なほどの静寂と、より一層重厚な威圧感を放って眼前に立ちふさがる山脈の姿だった。

 カイルは荒い息を整えながら、拳を強く握りしめた。


 この山脈を越えた先にある、最北の屋敷。

 そこへ辿り着くためには、この山脈が象徴する「過去の自分」を乗り越え、今の自分として歩き続けなければならない。


 不完全な神と、異世界の少年。そして小さな戦友。

 三人の旅路は、厳しい山の洗礼を受けながらも、着実に、一歩ずつ北へと刻まれていった。

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