第五楽章 「商人の窮地と、ミナトの知恵」
山脈から吹き下ろす冷たい風が、街道の乾いた土を巻き上げる。
カイルが「匂いが変わった」と口にした数秒後、フローラがダガーの柄を強く握りしめ、喉の奥で小さく、けれど鋭い唸り声を上げた。その耳は、遥か上方から迫る「殺意」を正確に捉えていた。
「……勇者様、くる。……たくさん」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、街道脇の切り立った崖上から、数体の『ニードルホッグ』が弾丸のような速度で転がり落ちてきた。鋼鉄に匹敵する硬度の針を全身に纏った、巨大な猪型の魔物だ。それが四肢を丸め、高速回転しながら突進してくる様は、まさに生きた鉄球であった。
「護衛! 魔物だ、総員構えろ!」
商隊の騎兵たちが叫び、盾を並べて防壁を作る。だが、重力加速を味方につけたホッグの激突は、人間の盾など木の葉のように弾き飛ばす威力を持っていた。先頭の馬車の側面へ、鋭い針の雨が降り注ごうとしたその刹那。
「――っ!」
風を切り裂くような鋭い呼気と共に、白銀の残像が戦場を横切った。
フローラだった。
彼女は重い外套を翻し、舞うような足取りでホッグの突進を紙一重でかわすと、逆手に持ったダガーを一閃。回転する魔物の遠心力を利用するようにして、強固な針の隙間――喉元の僅かな急所を的確に、深く、無慈悲に貫く。
「……すご、い……」
商隊の若者たちが、手にした武器を構えることすら忘れて呆然と立ち尽くす。
フローラの動きには一切の淀みがなかった。一体を仕留めた反動を利用して跳躍し、空中で身を翻しながら次の一体へ。針を射出しようとしたホッグの鼻先に、閃光のような一突きを見舞う。
それは、カイルと共に死線を潜り抜け、彼に認められるために磨き上げられた、純粋な「暴力」と「芸術」の融合だった。
最後の一体が断末魔を上げる頃、街道には不気味なほどの静寂が訪れた。フローラは軽やかに地面に着地し、ダガーの血を鋭く払って鞘に収めた。その間、わずか数十秒。
「……何が、起きたんだ?」
「あの小さな女の子、一人で……?」
一呼吸置いて、商隊から爆発的な歓声が上がった。
恐怖が驚嘆に、そして感謝へと変わる。フローラは少しだけ誇らしげに耳を揺らすと、何事もなかったかのようにカイルの隣へ戻り、彼の裾をそっと掴んだ。
「合格だ。無駄のない、いい動きだったよ」
カイルが静かに拍手を送ると、フローラの尻尾が嬉しそうにパタパタと揺れた。
◇
その日の夕刻。商隊は街道沿いの開けた広場で野営の準備を始めた。
焚き火の周りでは、フローラの無双ぶりが興奮気味に語られていたが、商隊長だけは険しい顔で一台の荷馬車の前に立ち尽くしていた。
「参ったな……。戦闘の混乱で急停止した拍子に、車軸が完全に歪んじまった。おまけに中の商品……貴重な油の瓶がいくつも割れて、他の荷物にまで染み出してる。このままじゃヴァルカスの門に着く前に中身が全部腐っちまうぜ」
商隊の修理工も「予備の車軸を合わせるにしても、この歪みを直すには工房の設備がねぇと無理だ……」と、焚き火の灯りの下で頭を抱えている。
その様子を、カイルの横で干し肉を齧りながら眺めていたミナトが、ひょいと腰を上げた。
「どれどれ、ちょっと見せてくれよ。……あー、なるほど。これなら、俺のいた世界のやり方が使えるかもな」
ミナトは近くにあった予備の太い丸太と、商隊が持っていた粘着性のある強い樹液、そして自分の荷物から「あるもの」を取り出した。
「いいか、まずはこの樹液に、この『さらさらの粉(ミナトが昼間見つけた乾燥した粘土粉)』を混ぜる。そうすると、隙間を埋める強力なパテ代わりになるんだ。車軸の歪みは、テコの原理でこう……長めの丸太をここに噛ませて、みんなでグイッといけば元に戻る。油の漏れは、こっちの『灰』をたっぷりまけば吸い取れるし、その後に石鹸水で拭けば完璧だぜ!」
ミナトは現代の生活の知恵や、ネットで見たことのある「ライフハック」を駆使して、テキパキと指示を出した。テコの原理を説明する際、中世的な価値観の商人たちは「そんな魔法みたいな理屈があるのか?」と驚いていたが、実際に巨大な車軸が小さな力で持ち上がるのを見て、感嘆の声を上げた。
(……理科の授業、寝てなくて良かったぜ!)
ミナトは心の中でガッツポーズをした。数時間後。絶望的だと思われた荷馬車は、見事に旅を続けられる状態まで応急処置されていた。
「驚いたな……! まさか身近にあるものだけで、ここまで直してしまうとは。あんた、ただの風来坊じゃないな?」
「へへっ、どうだ! 俺の知恵も、たまには魔法より役に立つだろ? 感謝しろよな、カイル!」
ミナトは鼻の下を指でこすりながら、最高のドヤ顔をカイルに向けた。
「……ふん。君のその、たまに発揮される『生活への異常な執着』だけは認めざるを得ないな」
カイルは呆れたように笑いながらも、どこか誇らしげにミナトを見た。
その夜、商隊長から感謝の印として、特別な燻製肉と、香草の香りが漂う琥珀色の「甘い地酒」が並んだ。
商隊長が景気よくミナトのコップにそれを注ごうとした瞬間、ミナトは慌てて両手を振って拒絶した。
「わっ、ちょっと待った! ストップ! 俺、それ飲めないから!」
「あん? 何を言ってる。これはこの辺りの特産でな、疲れが吹き飛ぶ最高の薬だぞ。あんたみたいな手柄を立てた男が飲まないでどうする」
「いや、そうじゃなくて……。俺のいた場所じゃ、こういうのは二十歳になってからって決まりがあるんだよ。俺、まだ未成年だし、法律違反になっちゃうから!」
ミナトの必死の拒絶に、商隊の面々はポカンと口を開けた。「法?」「二十歳まで飲まない?」と、彼らにとっては理解不能な異国のマナーに戸惑っている。
そんなミナトの様子を、カイルが隣で愉しげに眺めていた。
「ふむ。ミナトの故郷では、身体を清める儀式(成人の儀)がそれほどまでに厳格なのかい? ……まあ、いいじゃないか。ここはリーブラの街道だ。君の国の法律とやらは、この地の風には届かないよ」
「そういう問題じゃないんだって! 気分的な問題! というか、カイル、お前……俺が困ってるの見て楽しんでるだろ!」
「心外だな。僕はただ、郷に入っては郷に従え、という知略を授けているだけだよ」
カイルはそう言って、自分のコップに注がれた酒を悠然と口に運んだ。
結局、ミナトは果実を絞っただけのジュースで妥協することになり、「っかー! 異世界まで来てコンプライアンス守るとか、俺マジで真面目すぎだろ……」と焚き火の前で一人ごちたのだった。
そんなミナトの様子を横で見ていたフローラが、自分の分のジュースを差し出しながら首を傾げた。
「……ミナト、まじめ。……でも、そういうところ……勇者様、ちょっと、うれしそう」
「え、マジで? あれ、カイル的にプラス査定なの?」
ミナトが驚いてカイルを見ると、彼は既にそっぽを向いて、燃える炎を見つめていた。その耳元が少しだけ動いたのを、ミナトは見逃さなかった。




