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第一楽章 「手当てと、未知との遭遇」

 領都の宿、カイルたちの部屋。

 先ほどまでの目抜き通りの喧騒が嘘のように、室内には静かな、けれどどこか張り詰めた空気が漂っていた。

 窓から差し込む月光が、カイルの横顔を淡く照らしている。彼は手慣れた様子で清潔な布と水、そして自ら調合した薬草の軟膏をテーブルに並べた。


「……フローラ。そこに座りなさい。動いてはダメだよ」


 カイルの声は、これまでの旅路で見せていた冷徹な響きが完全に消え、深い信頼と慈しみに満ちていた。カイルの前にちょこんと座ったフローラは、ボロボロになった外套を脱ぎ捨て、一週間耐え抜いた傷だらけの細い腕を晒していた。


「……ゆう、しゃ……さま……。ごめんなさい、よごして……。せっかく、勇者様がくれた、お洋服だったのに……」


「謝らなくていい。服ならまた買えばいい。……よく、一人で頑張ったね。君がいてくれて、本当によかった」


 カイルは優しく微笑み、フローラの傷口を魔法を込めた水で清めていく。白銀の光が微かに灯り、彼女の深い裂傷をゆっくりと塞いでいった。

 一方、そんな二人の聖域のような光景を、部屋の隅で文字通り「口をあんぐりと開けて」見つめている少年がいた。


「……ちょ、ちょっと待ってくれ。整理させてくれ。俺の脳内HDDが容量オーバー寸前なんだが」


 ミナトが、こらえきれずに叫び声を上げた。


「……カイル! 今の、今の耳! 自分の意思でピクピク動いたよな!? 本物!? っていうか、獣人!? マジで獣人なのか!? しかも何その可愛さ、二次元を超えた三次元の暴力だろ!!」


 ミナトの琥珀色の瞳が、かつてないほどギラキラと輝いている。

 現代日本でアニメやゲームの中にしか存在しなかった「獣人の少女」。それが今、目の前で本物の尻尾を不安そうに足に巻き付けている。ミナトにとっては、カイルの超常的な力を見る以上の、物理的な「異世界の衝撃」だった。


「ひ……っ!?」


 ミナトのあまりのハイテンションと大声に、フローラはびくりと肩を震わせ、カイルの影に隠れるように身を縮めた。警戒心に満ちた瞳でミナトを見つめる彼女の姿は、まるで怯えた仔動物そのものだ。


「あ、すみません! 怖がらせるつもりは……。でも、あの、その耳……ちょっとだけ、人生の思い出にちょっとだけでいいから触らせてもらってもいいですか!? あと、そのフサフサの尻尾も! 触るのが無理なら、せめて風圧を感じるくらい近くで……!」


 ミナトが我慢できずに、じり、じりと膝で歩み寄る。

 すると、それまで無言で手当てをしていたカイルの手が、ぴたりと止まった。


「……ミナト」

「え? あ、ハイ」


 カイルがゆっくりと振り返る。その瞳は笑っていたが、眼の奥には、大切な仲間を無遠慮に扱う者への、底冷えするような警告が宿っていた。


「……あまりフローラを怖がらせるなと言ったはずだよ。それ以上彼女に近づくなら、君のその腕の関節を、ありえない方向に曲げてあげてもいいけれど?」


「ひ、ヒィッ!? すみません、調子に乗りました! 触りません、3メートル離れた位置から観賞用で我慢しますから!」


 ミナトは慌てて三歩下がり、その場に平伏した。

 フローラは、カイルが自分を守ってくれたことに安堵したのか、ぎゅっとカイルの袖を掴んだ。


「……このひと、だれ……? 勇者様、だまされてない……?」


「ああ、紹介が遅れたね。ミナトというんだ。……この世界の外から来た、少しばかり騒がしくて失礼な男だよ。僕が一人で絶望に呑み込まれないように、隣で余計なことをしてくれている親友のようなものだ」


 親友。カイルなりの、照れ隠しを含んだ不器用な紹介を、フローラは静かに咀嚼するようにミナトを見つめた。

 そして、ミナトが未練がましく見つめていた尻尾。フローラはそれを守るように自分の足元へ引き寄せると、きっぱりと首を振った。


「……しっぽは、だめ。勇者様、だけ……」


「……振られたぁぁ!! しかも勇者様限定の聖域かよ、絆が重い! 重すぎるよカイル!」


 賑やかに嘆くミナトを見て、フローラの瞳に宿っていた警戒心が、ほんの少しだけ和らいだ。

 彼女は、カイルの横顔をじっと見つめた。一週間前、引き離されたあの瞬間のカイルは、世界が崩壊するような絶望の中にいた。けれど、今隣に座るカイルは、どこか吹っ切れたような、以前の屋敷で過ごしていた頃の「人間らしい温かさ」を僅かに取り戻しているように見えた。


(……ああ。よかった)


 フローラは、鋭い感覚で感じ取っていた。

 この数日間、勇者様の孤独を、その暗い闇を、この「ミナト」という騒がしくて不敬な少年が無理やり照らし続けていたことを。勇者様が、誰にも届かない「神の虚無」に落ちる前に、この少年の存在が彼を地上に繋ぎ止めていたことを。


 自分がいない間、勇者様の隣にこの人がいてくれて、本当によかった。

 フローラは心の中でそっと安堵の息をつき、ミナトに向けて、まだぎこちないけれど、敵意のない小さな会釈を返した。


「……カイル。今、フローラちゃんに『許し』をいただいた気がするぞ……! 俺、一生この尻尾の平穏を影から守る!」


「……勝手にしろ。ただし、節度は守ることだ」


 カイルは呆れたように肩をすくめると、フローラの頭を優しく撫でた。


「さあ、手当ては終わりだ。……フローラ、君がこの一週間、何を見てきたのか。……そして、他の皆の気配は、何か感じなかったかな?」

 

 カイルの問いかけに、フローラは撫でられていた頭を少しだけ下げ、伏せ目がちに首を振った。


「……ごめんなさい、勇者様。……だれも、いなかった」


 フローラの小さな肩が、僅かに震える。

 一週間、彼女は獣人としての並外れた嗅覚を限界まで使い、領都に漂う無数の匂いを嗅ぎ分けてきた。カイルの残り香を見つけられたのは、奇跡に近い幸運だった。けれど、それ以外の――ガイアスの猛々しい気配も、セシリアの清らかな香も、双子たちの輝くような魔力も。


「……街のなかも、街にくるまでの森も。……だれの、においも、なかった。わたし……見つけられなくて……ごめん、なさい……っ」


 フローラの瞳に、再び涙が溜まり始める。

 カイルがどれほど必死に家族を捜しているかを知っているからこそ、自分だけがここにいることへの申し訳なさが、彼女の心を締め付けていた。


 カイルは、一瞬だけ目元を翳らせ、落胆の影を隠せなかった。

 フローラの鼻に掛かれば、街のどこかに潜んでいるなら必ず見つかると思っていた。その期待が外れた事実は、カイルに「他の皆は、この街よりずっと遠くへ飛ばされた」という過酷な現実を突きつけていた。


 だが、カイルはすぐに自らの表情を殺した。

 顔を伏せるフローラの震えが、何よりも胸に刺さったからだ。


「……謝る必要なんてないよ、フローラ。君が、僕を見つけてくれた。それだけで、僕の絶望は半分以上消えたんだ。残りの皆については……そうだな。僕の捜し方が甘かっただけだ。君を責める理由なんて、どこにもない」


「そうだ、そうだよ! フローラちゃん、自分を責めちゃダメだぜ!」


 隣で沈黙を守っていたミナトも、慌てて身を乗り出した。


「一週間、あんなボロボロになるまでカイルのこと捜してたんだ。これ以上の『頑張り』なんて、この世に存在しないぜ。っていうか、むしろ謝らなきゃいけないのは、さっきデリカシーなく尻尾触ろうとした俺の方だから!」


 ミナトの全力のフォローに、フローラは驚いたように顔を上げた。

 カイルはミナトの言葉に小さく笑みをこぼすと、フローラの手を優しく包み込んだ。


「ミナトの言う通りだ。君はもう、十分すぎるほど役割を果たしてくれた。……今日からは独りじゃない。これからは僕と、この騒がしい親友も一緒に、皆を捜しに行こう。……いいだろう? ミナト」


「もちろん! 俺の微妙なチートも、フローラちゃんの鼻も、カイルの頭脳もある。これ、もう『最強パーティ』の始まりだろ!」


 ミナトはそう言って、誇らしげに琥珀色の瞳を輝かせた。

 フローラは、カイルの温かな掌と、ミナトの真っ直ぐな言葉を交互に見つめ、ようやく、今夜初めての小さな、けれど確かな微笑みを浮かべた。


「……うん。……いっしょに……みんなを、見つける」


 宿の窓の外には、変わらず冷たい領都の夜が広がっている。

 けれど、この部屋の灯りの中にあるのは、もう昨日までの孤独ではない。

 不完全な神と、異世界の少年。そこに「家族」の欠片である少女が加わった三人の旅は、失った絆を全て取り戻すための、新たな一歩を力強く踏み出した。


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