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奏楽神話 〜君≠を救い出す旅路〜  作者: ぱんどいっち 
追想曲 第1番 【フローラの1週間の旅路】
16/22

第三楽章 「繋がった糸と、涙の足跡」

 領都に潜り込んで三日目の夜。

 フローラは、大通りに面した立派な宿の裏手、湿ったゴミ溜めの影に身を潜めていた。

 全身の傷は疼き、熱を帯びた体は悲鳴を上げている。だが、彼女の鼻が捉えた「匂い」は、もはや幻覚などではないほど鮮明に、その建物の二階から漂っていた。


(……そこに、いる。まちがいない。勇者様の……におい)


 それは、落ち着く古い木のような香りに、カイルが密かに愛飲しているあの甘いシロップの香りがほんのりと混ざった、世界で唯一の、温かな匂い。

 見上げれば、一際広いテラス。その手すりに、月光を反射する人影が見えた。


 叫びたかった。今すぐ壁を駆け上がり、あの胸に飛び込みたかった。けれど、彼女は自分の汚れきった姿――泥と返り血がこびりつき、異臭を放つ「浮浪児」の姿を見つめ、震える指を口元に当てて声を殺した。


(今のわたしが行ったら……勇者様、困るかな。……嫌われちゃうかな)


 自分は今、獣人として卑しまれる、最も惨めな姿をしている。対して、テラスから漂ってくるカイルの気配は、どこまでも清らかで、気高く――そして、痛いほどに孤独だった。


 ふと、夜空を一つの星が流れた。

 カイルがテラスで、あの屋敷時代の「雨上がりの流星群」を思い出していたその時。真下の路地裏で、フローラもまた、カイルの足跡が残る石畳に顔を寄せながら、同じ星を見上げていた。


「……ゆう、しゃ……さま……」


 テラスから微かに漏れ聞こえた、「会いたい」という掠れた独白。

 その一言が、冷たい石畳の上で凍えていたフローラの心に、何よりも熱い火を灯した。


 あの日、勇者様が丘の中腹で「もういい」と諦めかけた時、その背中を支えて登り切ったのは自分たちだった。なら、今度は自分が、この孤独な夜を終わらせるために勇者様を迎えに行く番だ。



        ◇



 翌朝。運命の「再会の日」が幕を開けた。

 フローラは、朝から必死にその匂いだけを頼りに、街の雑踏を駆けた。


 一度目、活気あふれる市場。

 数メートル先にカイルの後ろ姿が見えた。けれど、調理の煙が鼻を狂わせ、厚い人波が壁となって立ちはだかる。必死に伸ばした指先は、誰にも届かぬまま空を切った。


 二度目、噴水広場。

 勇者様の足音を確信して駆け寄ったが、一足遅く、そこにはもう誰もいなかった。


 三度目、昼下がりの大通り。

 巨大な荷馬車が目の前を通り過ぎ、その轟音が、自分が叫ぼうとした小さな声を無慈悲にかき消した。馬車が去った後、そこにはもう勇者様の姿はない。


(どうして……どうして、あと少しなのに……っ!)


 そのたびにフローラの心は削られ、運命という名の悪戯が彼女の足首を掴もうとする。けれど、彼女は止まらなかった。一週間、森で獣の喉笛を掻き切り、街で石を投げつけられても折れなかった心が、彼女に「次の一歩」を強制する。


 そして、夕暮れ時。

 街全体が燃えるような橙色に染まる目抜き通り。

 人混みの向こうに、ついに、ついに「その背中」を捉えた。

 隣には、見慣れない少年が歩いている。

 けれど、カイルの纏う空気、歩き方、そして鼻を突くあの懐かしい風の匂い。

 フローラは、驚きと喜びのあまり、その場に縫い付けられたように呆けてしまった。数歩、カイルが通り過ぎていく。

 

 もう、これ以上待つことはできなかった。

 これ以上、独りで石畳を撫でる夜を繰り返すことはできなかった。


「――っ!」


 フローラは駆け出した。

 邪魔な大人たちを体当たりでかき分け、重い荷車を強引にすり抜ける。

 視界が涙でぐにゃぐにゃに歪む中、ただ一つの「背中」だけを、逃がさないように見つめ続けた。


(勇者様……勇者様……!)


 喉が、燃えるように熱い。一週間、一度も誰とも会話をせず、ただ獲物を仕留めるための唸り声か、恐怖に耐えるための悲鳴しか上げてこなかった喉が、たった一つの、大切な人の名前を呼ぶために震える。

 そして、彼女は叫んだ。

 自分を闇から救い出し、名前を与えてくれた、あの人の名を。


「――勇者様!!!」


 その叫びは、領都の喧騒を貫き、橙色の空へと吸い込まれていった。

 

 振り返ったカイルの瞳に、自分の姿が映る。

 呆然と立ち尽くすカイル。その瞳が驚きに揺れ、やがて深い慈愛の色に変わっていくのを見た瞬間、フローラの一週間におよぶ孤独な「追想」は終わりを告げた。


 駆け寄ってくる勇者様の体温。自分を包み込む、あの懐かしい腕の力。

 フローラは、カイルの胸に顔を埋め、これまで溜め込んできた寂しさのすべてを、涙と共に吐き出した。

 

 絆の糸は、ついに結び直された。

 夕暮れの街角、二人の涙は、長く暗い孤独を潜り抜けた先にある、最高の「再会の光」に照らされていた。

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