第十二楽章 「運命のいたずら、夕暮れの再会、君の声」
翌朝。領都は前日以上の活気に包まれていた。
カイルとミナトは、朝一番から街の探索に繰り出した。カイルの表情は相変わらず険しいが、隣を歩くミナトは「今日は絶対に何か見つかりますって」と、根拠のない自信で努めて明るく振る舞っている。その賑やかな声も、今のカイルにとっては、深い霧の中を照らす微かな灯火のようなものだった。
最初に運命が非情な交差を見せたのは、活気あふれる中央広場の市場だった。
カイルが馴染みのないスパイスの刺激に眉をひそめ、人混みを避けるように露店の裏側へ回った、その刹那。
彼が先ほどまで立っていた場所を、深くフードを被ったフローラが通り過ぎる。彼女は鼻先をヒクつかせ、愛おしい残り香を懸命に探していたが、折悪く吹き抜けた調理の煙がその微かな糸を無残にかき消してしまった。フローラは「……気のせい?」と小さく耳を垂らし、逆方向の雑踏へと消えていく。その距離、わずか数メートル。けれど、その数メートルが、絶望的なほどに遠かった。
「カイル、ちょっと休憩しないか? 喉乾きすぎて、俺のギフトが『水、出ろ』って勝手に発動しそうだぜ」
「……ふざけてないで歩け。次は冒険者ギルドの裏通りだ」
昼下がりの噴水広場。カイルは時計台を見上げ、情報の入りにくい現状に焦燥を募らせていた。苛立ちを隠さぬまま、彼はミナトを促して、背後の路地へと早足に足を向ける。
そのわずか十数秒後。
噴水の反対側から、駆けるような足取りでフローラが姿を現した。彼女はそこに漂う「気配」を求めて必死に瞳を凝らす。だが、広場を埋め尽くす群衆の背中が分厚い壁となり、愛する人の後ろ姿を非情にも隠し続けていた。彼女が伸ばしかけた手は、誰にも届かぬまま、午後の日差しの中に虚しく沈んだ。
その後も、運命はいたずらに二人を弄ぶ。
大通りで馬車の通過を待つカイル。その馬車の対岸を、俯きながら歩くフローラ。
カイルがふと視線を上げた瞬間、巨大な荷馬車が二人の視界を完全に遮り、車輪の轟音がフローラの歩みをかき消す。馬車が通り過ぎた後、そこにはもう、互いの姿はなかった。すれ違う靴音、混ざり合うことのない視線。
――そして、夕暮れ時。
街全体が燃えるような橙色に染まり、家路を急ぐ人々の影が石畳に長く伸びる時間。
今日も何も掴めなかった。その事実が、カイルの足取りをこれまでにないほど重くさせていた。
「……今日は、もう戻るか」
「そうだな。……カイル、根詰めすぎですよ。明日はきっと――」
ミナトが言いかけた、その時だった。
前方からやってくる人波を避けるように歩いていたカイルの横を、一つの小さな影がすれ違った。
「…………っ」
すれ違いざま、フローラの時間が、世界が、停止した。
全身の血が逆流するような衝撃。鼻腔を突いたのは、夢にまで見た、あの優しくて懐かしい「勇者様の匂い」。
「……ゆう、しゃ……さま……?」
掠れた声が、夕暮れの喧騒に溶ける。
フローラは驚きと喜びのあまり、その場に縫い付けられたように呆けてしまった。数歩、カイルの後ろ姿が遠ざかっていく。本物の、勇者様。あれは間違いなく、自分が守りたかった、あの背中。
数秒、いや永遠にも感じられる硬直の後、彼女は弾かれたように我に返った。
「――っ!」
フローラは駆け出した。
だが、夕刻の目抜き通りはあまりに無慈悲だった。
買い物帰りの大人たちの体躯、強引に道を塞ぐ荷車、不機嫌な喧騒。小柄な彼女の行く手を、世界が寄ってたかって阻んでくる。
(勇者様……勇者様……!)
声が出ない。喉が熱く締め付けられ、必死に呼ぼうとしても、思いは胸の中で渦巻くばかりだ。
必死に人をかき分け、爪先立ちでその背中を探す。一歩進むたびに、カイルの後ろ姿が群衆の波に呑まれそうになる。
(……お願い……気づいて……勇者様!)
視界が涙で滲みそうになるのを、彼女は唇を噛んで堪えた。
ここで見失ったら、二度と会えない気がした。
全霊を込めて、彼女は肺いっぱいに空気を吸い込み、魂を叫びに変えた。
「――勇者様!!!」
それは、喉を切り裂くような、切実で震える声だった。
名前を呼んだ瞬間、堰を切ったように涙が止まらなくなる。
前方を歩いていたカイルの足が、まるで糸が切れたかのように止まった。
カイルは、ゆっくりと、恐る恐る振り返る。その瞬間、彼の世界からも一切の音が消えた。
視線の先。
夕日に照らされ、ボロボロの外套を揺らしながら、顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくっている、小さな少女。
「……フローラ?」
カイルがその名を呼んだ瞬間、彼の中の時は本当に止まった。
知略も、冷徹な仮面も、孤独な旅の覚悟も。
すべてが、目の前にいる少女の涙一粒によって、温かな思い出の彼方へと押し流されていった。
「……っ……ぁ……」
自分の名を呼ぶ懐かしい声に、フローラはもう、一歩も動くことができなかった。
張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、その場に崩れ落ちそうになる。膝の震えが止まらず、地面に視線を落としたまま、ただひたすらに涙が溢れ出していた。
再会を確信した瞬間、心は喜びを通り越し、これまでに積み重なってきた孤独と恐怖に押し潰されていた。
カイルは、そんな彼女の姿をただ呆然と見つめていたが、やがてその足が意志を持って動き出す。
一歩、また一歩。最初は現実を疑うように慎重だったその歩みは、次第に速まり、最後には周囲の群衆をかき分けるようにして、なりふり構わず駆け出した。
「フローラ!!」
カイルは跪くようにして、小さな少女の体を、壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないという強い意志を込めて力いっぱい抱きしめた。
「ふ、っ……あ、ああぁっ……!」
カイルの胸に顔を埋めた瞬間、フローラの感情が完全に決壊した。
寂しかった。怖かった。自分がどうなっても、勇者様にだけは会いたかった。
今までのこと、耐え続けてきた寂しさを伝えたくても、喉を突いて出るのは嗚咽ばかり。言葉にならない慟哭が、夕暮れの街角に響き渡る。
「……よかった、無事だったんだね……。ごめん、遅くなってごめん……」
カイルの声も、激しく震えていた。
家族を守ると誓い、Lv.100にまで至った自分。それなのに独りになり、暗い路地裏で涙を零した昨日の夜。その孤独と焦燥を拭うように、カイルもまた、フローラの背中に回した腕に力を込め、いっぱいいっぱいに、子供のように声を上げて泣いた。
「勇者……様……っ……勇者……さまぁ……っ!!」
「ああ、ここにいる。もう大丈夫だ、フローラ」
互いの名を呼び合うたびに、心に空いていた冷たい穴が温かな熱で埋まっていく。
人混みのど真ん中、夕日に照らされた二人は、ただの「寂しがり屋な少年」と「独りぼっちだった少女」として、互いの存在を確かめ合うように、いつまでも泣き続けた。
――が。
そんな感動的な再会の、すぐ真横。
この数日間、カイルの孤独な旅の唯一の伴走者であったミナトは、完全に「置いてけぼり」を食らっていた。
「…………」
ミナトは、引き攣った笑いを浮かべたまま、その場に固まっていた。
ここは領都のメインストリート、そのど真ん中だ。
家路を急ぐ買い物客、物珍しそうに足を止める通行人、さらには「何だ、迷子か?」「いや、感動の再会か?」と野次馬までが集まり始めている。
その中心で、端正な顔立ちの青年と、ボロボロの美少女が、ドラマの最終回さながらに抱き合って号泣しているのだ。
あまりにも密度の高い二人の世界。入り込む隙など一ミリも存在しない、完成された聖域。
(……え、これ、話しかけていい雰囲気? いや無理だろ、死んでも無理だわ。カイル、鼻水出てるけどそんなの指摘できるオーラじゃないし……。でも、すっげー見られてる! 俺まで、すっげー『関係者』みたいな目で見られてるんですけど!!)
カイルはフローラを抱きしめたまま、再会の喜びに浸りきっている。フローラは勇者様の体温を確かめるように、ひたすらに泣きじゃくっている。
ミナトは頭を抱えた。
感動を邪魔したくない。けれど、周囲の「早くどっか行けよ感」と「ヒューヒュー!感」が混ざり合った視線の痛さに、精神が削られていく。
(この状況、俺はどうすればいいんだよーーーーーっ!!!)
ミナトの魂の叫びは、二人のすすり泣きと街の喧騒にかき消されていく。
こうして、不完全な神と琥珀の瞳の少年の旅は、一人の家族との合流という、最高の、そして最高に気まずい形での大きな一歩を刻んだのだった。




