第十一楽章 「雨上がりの奇跡、あるいは微かな残り香」
領都の夜は、前の街とは比較にならないほど深い。
カイルたちが選んだのは、大通りに面した中級以上の宿だった。ようやく確保できた「背中が痛まない」一夜に、ミナトはシーツの敷かれた清潔なベッドへダイブし、そのまま顔を埋めて身悶えした。
「う、うおおおぉぉ……! これだよ、これ! この沈み込むような感覚……。明日からはちゃんと人間として歩けそうだわ……」
「……はしゃぎすぎだ、ミナト。汚れた服のまま潜り込むんじゃない」
カイルは呆れたように一言投げかけたが、その声にはいつもの鋭さはなかった。ミナトが幸せそうに寝息を立て始めるのを見届けた後、カイルは音を立てずにテラスへと出た。
見下ろせば、領都の夜景が広がっている。
無数の家々の窓から漏れる灯りは、地上の星々のようだ。だが、その光のどれ一つとして、カイルの知っている温もりではない。
「……これだけ、人がいるのに」
カイルは夜空を仰いだ。昼間の聞き込みの成果は、相変わらず無に等しかった。
この広い世界で、自分だけが置き去りにされたような、冷たい静寂が肺を刺す。
ふと、視線の先で星が流れた。
(……ああ。あの日も、僕は今日みたいに諦めかけていたな)
♢
脳裏に蘇るのは、カイルが全能を失い、Lv.1の無力な人間として皆と屋敷で過ごしていた頃の記憶。
流星群が見られるというその夜、空は朝から分厚い雨雲に覆われていた。ぬかるむ足元、叩きつける雨粒。Lv.1の体では一歩進むのも困難で、カイルは丘の中腹で足を止めてしまった。
『……もういいよ。どうせこんな雨じゃ見えない。屋敷に戻ろう』
弱音を吐き、うつむくカイル。だが、その背中に置かれたのは、確かな体温を持つ力強い手だった。
『何言ってんだカイル。お前が言い出したんだろ。俺たちがついてんだ、きっと晴れるさ』
『そうですわカイル様。大丈夫、みんなで登り切りましょう。奇跡は信じる者の前に現れるものですから』
ガイアスやセシリアが、当たり前のように微笑んでカイルを支える。レオンやリリィも、雨に濡れるのを構わず前を向き、カイルを一人にはしなかった。
そして何より、一番隣で袖をギュッと掴んでいたフローラが、言葉はなくともその瞳で「信じている」と訴えていた。
五人に支えられ、励まされ、ようやく丘の頂に立ち、天を仰いだその瞬間。
――嘘のように、風が雨雲を切り裂いた。
宝石を散りばめたような満天の星空。雨上がりの澄んだ大気の中で、無数の尾を引く流星たちが、次から次へと夜闇を駆けていく。
『……ほらな、言っただろ。俺たちの勝ちだ』
泥だらけの顔で笑い合った、あの夜。
自分の無力さを皆の信頼が埋めてくれた、あの再生の記憶。
♢
「……あの時の星は、本当に綺麗だったな」
テラスの縁を握るカイルの手が、微かに震える。
あの日、皆が信じてくれたように、今度もまた、この「諦めかけた心」を誰かが救ってくれるのだろうか。
◇
同じ夜。領都の端にある、暗い路地裏。
家路を急ぐ人々も寄り付かない薄汚れた石畳の上で、一つの小さな人影が立ち止まった。
ぼろぼろの外套を深く被り、周囲を警戒するように耳をそばだてる少女。
ふわり、と風が路地の奥から吹き抜けた。
「……っ」
少女――フローラの鼻先が、微かに動いた。
彼女の並外れた嗅覚が、数多の悪臭や生活臭の中に混じった、決して忘れられない、温かな「残り香」を捉える。
それは、イタズラ好きな少年の遊び心と、不器用な優しさが混ざり合った、この世界で唯一の匂い。
「……ゆう、しゃ……さま……?」
掠れた声が、震える唇から零れる。
彼女は祈るように胸元を握りしめ、つい先ほどまでそこにいたかのような微かな香りを追い、闇の中へと一歩を踏み出した。
絆の糸は、確実に同じ街の中で結ばれようとしていた。




