第一楽章 「断ち切られた心の絆」
それは、あの一週間前の、あまりにも無慈悲な光景から始まった。
穏やかな屋敷。その食卓が、未知の神が放った不可視の圧力によって一瞬で消滅したあの日。
カイルは白銀の髪をなびかせ、家族を守るためにその身を盾としていた。
フローラにとって、カイルはただの守護者ではなかった。奴隷として絶望の淵にいた自分を救い出し、「フローラ」という温かな名前をくれた人。共に泥にまみれて笑い、同じ食卓を囲み、時には不器用なイタズラに振り回される――そんな、屋敷で積み上げてきたかけがえのない時間が、彼女の心に「勇者様がいれば大丈夫」という揺るぎない絆を刻んでいた。
けれど、次の瞬間。
空が硝子細工のように脆く砕け、漆黒の亀裂がカイルとフローラの間に奔った。
「――勇者、様……っ!」
叫ぼうとした声は、空間を吹き荒れる次元の嵐に呑み込まれた。
カイルへと伸ばした指先は、届く寸前で激しい衝撃に弾き飛ばされる。
スローモーションのように遠ざかっていく視界の中で、必死に自分の名を呼ぼうとするカイルの、これまでに見たことがないほど悲痛な表情が見えた。
(だめ……いかないで……!)
叫びは声にならず、ただ虚空を掻きむしる。
カイルの纏う白銀の光が、次元の狭間に吸い込まれるようにして、最後の一筋まで掻き消えていく。その瞬間、いつも側に感じていた、あの頼もしい温もりが完全に消えた。
それはフローラにとって、世界から光が奪われ、再びあの暗い檻の中に放り込まれるのと同じ絶望だった。
意識が暗転し、次にフローラが目を開けたのは、見知らぬ深い森の底だった。
湿った土の匂い、腐敗した葉、そして遠くから聞こえる凶悪な魔物の咆哮。
「……あ……ぅ……」
立ち上がろうとしたが、身体が動かない。転移の衝撃で全身が軋み、喉を焼くような渇きが襲う。
何より恐ろしかったのは、いつも隣にいたカイルの気配が、どこを探しても見当たらないことだった。
(独り……? わたし、独りなの……?)
雨の日も、風の日も、あの屋敷に帰れば必ずいた、あの背中。
「フローラ」と呼んでくれる、あの穏やかな声。
それが、一瞬にして掌から零れ落ちてしまった。
周囲の闇が、まるで自分を飲み込もうとする巨大な口のように見える。
一歩でも動けば、物陰に潜む魔物に引き裂かれるかもしれない。あるいは、このまま飢えて、誰にも気づかれずに土に還るのか。
かつて絶望の中にいた自分に戻ったような感覚。フローラはボロボロの外套にくるまり、激しく震える細い肩を抱きしめた。
(……こわい。勇者様、どこ……たすけて……)
弱音が、涙となって頬を伝う。
けれど、その涙が泥にまみれた手の甲に落ちたとき、彼女の胸の奥で、消えかかっていた小さな火が灯った。
(……フローラ。あなたは、花のように温かいから)
かつて勇者様が、その名を付けてくれた時の穏やかな声が、魂の底で反響した。
名前をくれた。居場所をくれた。
勇者様は、私に「生きていい」と言ってくれた。
そして、あの再会の丘で「きっと晴れる」と信じてくれたのは、他ならぬ自分たちだったはずだ。
(……ここで、おわりにしたくない。また、みんなで……わらいたい)
フローラは泥にまみれた手を震わせ、必死に地面を掴んだ。
絶望に折れるのではなく、生きるための執念を。
彼女は、獣人特有の鋭い鼻をひくつかせた。
周囲に漂うのは、知らない魔物の体臭や、むせ返るような植物の腐臭ばかり。けれど、彼女はその悪臭の隙間に、一筋の、針の先ほど細い「勇者様の匂い」を、奇跡的に捉えた。
それは空間が裂けた瞬間に漂った、あの懐かしくて愛おしい香り。
どんなに薄くても、彼女にとっては太陽よりも眩しい道標。
「……ゆう、しゃ……さま……。きっと、探しに……きてくれる……。だから、わたしも……」
声は掠れていたが、その瞳には凍てつくような決意が宿っていた。
ボロボロになった外套を引きずり、泥を拭い、少女は立ち上がる。
こうして、フローラの孤独で、血の滲むような一週間の「旅」が始まった。
武器もない、魔法も使えない。けれど、心に刻まれた「カイルがくれた自分の名前」と、わずかな香りを追う鼻だけを信じて。
彼女は、最初の重い一歩を踏み出した。




