第30話 癒す手、支える声
―――異世界・アルカディア王国 王宮 医務室―――
医官の部屋の扉を、セレスはそっと押し開けた。
白い包帯に包まれたリディアは、寝台の上で目を閉じたままだった。
胸が浅く上下している。
規則正しくはあるが、まだ眠りは深い。
「……お変わりは?」
小さく呟いたセレスに、入り口に控えていたシグルが答えた。
「変わらず、眠っておられます。陛下は、他のご公務で立て込んでおられるため、私が立会人として同行いたしました」
「はい……ありがとうございます」
セレスは、寝台の傍らに静かに歩み寄った。
***
「失礼します」
セレスは腰を下ろし、リディアの手をそっと取った。
細く、冷たい指先だった。
包み込むように両手で覆うと、セレスは静かに目を閉じる。
祈りの言葉は、声にならなかった。
ただ、指先から淡い光が滲み出し、リディアの手のひらへと染み渡っていく。
わずかに、リディアの眉間の強張りが緩んだ。
浅かった呼吸が、少しだけ深くなる。
「……痛みの根を絶つことは、私にはできません」
セレスは、目を伏せたまま呟いた。
「なので和らげることが、精一杯です」
「それでも、十分な働きです」
シグルが、静かに応じた。
しばらく、部屋には二人分の息遣いと、リディアの寝息だけが満ちていた。
やがて、セレスがそっと手を離した。
「オズワルド様の……その後は、どうなっていますか」
問われたシグルの表情が、わずかに翳った。
「処分は受けています。命までは取られていませんが、神官としての立場は失いました」
「そう……ですか」
セレスは、視線を落とした。
「神殿の中は、まだ落ち着かないのでしょう」
「はい。禁忌の儀式のことは、限られた者しか知りません。ですが、混乱だけは誰の目にも見えています」
セレスは、膝の上で手を握った。
「それだけでは、ありません。街の様子も……」
言葉が、そこで一度途切れる。
「街が何か?」
「北国が攻めてくるかもしれない、と。もう噂になっています。市場でも、教会前の広場でも」
シグルは、眉をわずかに寄せた。
「噂の広がりは、こちらの想定より早い。手を打たねば、開戦を待たずして王都が疲弊しかねません」
「リディア様のせいでは、決してないのに……」
セレスは、眠るリディアの顔を見つめながら言った。
「ですが、民は理由を知りません。知らないからこそ、不安だけが独り歩きしています」
セレスは、しばらく俯いていた。
言おうとして一度、言葉を飲み込む。
膝の上の指先が、微かに震えていた。
(本当は......言うべきか迷っている......)
シグルは急かさず、ただ静かに続きを待った。
やがて、セレスは顔を上げた。
「――私が、神殿の代表として、民衆の不安をおさめます」
声は、震えていなかった。
「おこがましいかもしれませんが……聖女《私》には、それだけの声があるはずです。今まで、その声を使ったことがありませんでしたが」
「セレス殿……」
シグルは、珍しく驚いたように目を見開いた。
「本気で、おっしゃっているのですね」
シグルは、探るようにセレスを見つめた。
「民を率いるということが、どういうことか。分かった上で、おっしゃっていますか?」
シグルの声は静かだったが、容赦がなかった。
「不安だけなら、まだいい。行き場を失えば、それは怒りに変わります。矛先は、鎮めようとする者自身にも向く。あなたが立てば、その全てを引き受けることになりますよ」
セレスは、すぐには答えなかった。
問いはシグルの声を借りているだけで、本当は自分自身に向けられたものだと分かっていた。
(そんな力が、私にあるのだろうか)
これまで自分が支えてきたのは、せいぜい礼拝堂を訪れる、迷える一人二人だった。
国全体の不安を引き受けることとは、比べ物にならない重さのはずだった。
それでも。
セレスは、自分の両手を見下ろした。
祈りで和らげられるのは、痛みだけではないはずだった。
「怖くない、と言えば嘘になります」
ようやく、セレスは口を開いた。
「ですが、怖いからやらない、では何も変わりません。誰かがやらなければならないなら――私が」
セレスの声に、迷いはなかった。
シグルは、しばらく黙ってセレスを見つめていた。
「――分かりました」
やがてそう言って、静かに頷いた。
視線が、再び眠るリディアの顔へと戻る。
その瞳の中に、ある日の記憶が過った。
紅茶の湯気の向こうで、リディアが静かに言った言葉。
『――でしたら、友人になりませんか?』
孤児として神殿に拾われ、誰かに対等な言葉で呼ばれたことのなかった自分。
あの日、初めて「友人」という言葉の重さを知った。
「リディア様は、あの茶会の日、私に友人になってくださいと言ってくださいました」
セレスは、眠るリディアの手を、もう一度そっと握った。
「あれから、私はずっと、何か返したいと思っていました。今度は、私が誰かの力になる番です」
セレスは一度、言葉を切った。
「――恩返しが……したいのです」
その声は、眠り続けるリディアに向けられていた。
答えは、返ってこない。
寝息だけが、静かに続いている。
それでも、セレスは微笑んだ。
「聞こえていなくても、構いません。いつか、目を覚ました時に伝えられれば、それで」
シグルは、しばらく黙ってその横顔を見ていた。
「――陛下に、お伝えしておきます。頼もしい味方がいる、と」
「ありがとうございます」
窓の外では、まだ噂が独り歩きを続けている。
だが、この部屋の中にだけは、静かな灯がともっていた。
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