第29話 留守番の食卓
―――現実世界 小林家―――
朝の台所は、いつもより少しだけ静かだった。
テーブルの椅子は、四つ。
そのうちの一つが、今朝も空いている。
晃が帰ってこなくなって、三日目だった。
「ママ、お椀」
要が、棚の前で振り返った。
「あ、ごめん。ママがやるから――」
「いいよ」
要は、由奈が手を伸ばすより先に、四つのお椀を出していた。
一番上の段に、爪先立ちもせずに届くようになっている。
いつの間に、こんなに背が伸びたのだろう。
おたまを受け取って、要は慣れた手つきで味噌汁をよそった。
縁まで入れすぎず、零さない。
由奈が入院していたあいだに、この子が覚えたことだった。
「ママ、卵焼き焦げてる」
「えっ」
慌ててフライパンに向き直ると、端のほうが、きれいな茶色を通り越していた。
「……焦げてない。これは香ばしいの」
「ふうん」
要は、鼻で笑うみたいな声を出して、お椀を運んでいった。
その言い方が、少しだけ晃に似ていて、由奈は菜箸を持ったまま、一瞬だけ動けなくなった。
「ママ、お箸ならべた!」
明日香が、テーブルの向こうから顔を出した。
四人分、きちんと揃っている。
『揃っている』というより四つ目が、きっちり揃えられている。
誰も座らない場所の箸が、一番きれいに並んでいた。
由奈は、何も言わなかった。
言えば、明日香が「だってパパの」と言う。
そうしたら朝の食卓が、そこで止まってしまう気がした。
「じゃあ、食べようか」
「いただきます」
二人の声が重なる。
テレビのリモコンに、由奈は一度手を伸ばして、そのまま戻した。
今の時間帯は、どの局も、同じ映像を流している。
ニュースのない食卓は、少し間延びして、そのぶん穏やかだった。
***
昼過ぎ、スーパーに寄った。
調味料の棚の前で、名前を呼ばれた。
「あら、小林さん」
近所の知人で、隣にはもう一人いる。
「こんにちは」
由奈は、いつもどおりに笑った。
「……あの、今ご主人、大変なんじゃない? うちの人が言ってたけど、あの会社ってもしかして……」
語尾が、少し曖昧に溶けた。
「大変みたいですね。私も詳しくは知らないので……」
由奈は、笑ったまま答えた。
話はそこで終わった。
レジ袋の持ち手が、指の付け根に食い込んでいた。
赤い線が、一本。
いつからこんなに強く握っていたのか、自分でも分からなかった。
由奈は、持ち手を持ち替えて、歩き出した。
***
夜。
子どもたちを寝かしつけて、洗い物を済ませて、ようやく座った。
ソファの隅で、由奈はスマートフォンを開いた。
この数日、まとまった時間が取れない。
朝に数行、洗濯物を干す合間に数行。
そうやって、少しずつ読み進めていた。
画面の中では、夜が更けていた。
騎士団長が、王の部屋を訪ねている。
北国が欲しいのはカリナの身柄そのものではなく、詫びの形だ、と彼は言う。
だとすれば、差し出す人間は、誰でもいい――
由奈の指が、止まった。
その先を読んだ。
読み終えて、もう一度、同じところまで戻った。
(……行っちゃったの)
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
妹と国を守るために、たった一人で。
しかも、自分から言い出して。
「王様」
気づけば、心の中で呼びかけていた。
「王様、ガルドさんの……」
そこで、言葉が詰まった。
『――カヤか』
声は、すぐに返ってきた。
いつもより、低い。
「ずいぶん疲れた声だね。大丈夫なの?」
『……全くお前は、相変わらずだな』
「相変わらずって……」
由奈は、スマートフォンを膝の上に伏せた。
「ガルドさん、行っちゃったんだね」
『あぁ』
「止めなかったの?」
『止める資格が、俺にはなかった』
淡々とした声だった。
淡々としすぎていて、逆に分かってしまう。
「……ちゃんと、送り出せたんだね」
『送り出した、とは言えん。見送っただけだ』
「同じでしょ」
由奈は、膝の上のスマートフォンを、そっと撫でた。
「行かせたくないのに行かせたなら、それは見送ったんじゃなくて、送り出したんでしょう? 最終的に自分で決めたことだし」
『……お前は、いつもそうだな』
「え?」
『俺が言い換えてほしくないところを、勝手に言い換える』
「ふふっ、こういうのは得意なの」
短い沈黙のあと、息を吐くような音がした。
笑ったのだと、由奈には分かった。
この人が笑うと、少しだけ、こちらの肩も下りる。
「ちゃんと食べてる?」
『……なんだ、藪から棒に』
「そういう時に、人は食べなくなるから。王様が倒れたら、誰が一番困ると思ってるんですか」
『……食っている。シグルにも同じことを言われた』
「やっぱり!」
『お前たち二人は、気が合いそうだな』
由奈は、ふふ、と笑った。
声に出して笑ったのは、久しぶりな気がした。
それで、終わるはずだった。
『――カヤ』
名を呼ばれた。
さっきまでとは、少し違う呼び方だった。
「はい?」
『何かあったか』
由奈の指が、スマートフォンの縁で止まった。
「……え?」
『その、声が』
レオンは、静かに続けた。
『いつものお前なら、俺の減らず口にもう二つは返してくる。今日は、間が空いている』
由奈は、何も言えなかった。
この人は、人の気持ちや気配など、ろくに読めない人だったはずなのに。
こういうところだけ、やけに勘がいい。
『……何か、感じ取ったのか?』
レオンの声に、緊張が混じった。
『お前の声が沈むときは、たいてい、こちらで何かが起きている。リディアの時も、そうだった』
――ああ、と由奈は思った。
この人は、こちらの世界を知らない。
私が今、どんな台所に立っているかも。
スーパーで何を言われたかも。
何ひとつ、知らない。
だから、私の声が沈んでいれば、そちらの世界で何かが起きたのだと思う。
そう思ってくれることが――
「……ううん」
由奈は、笑った。
相手には見えないのに、ちゃんと笑ってから言った。
「そういうのじゃないの。ちょっと、寝不足なだけ」
『そうか』
「王様こそ、人の心配してる場合?」
『違いない』
レオンは、それ以上は聞かなかった。
由奈は、ほっとして――そして少しだけ、置いていかれたような気持ちになった。
由奈は画面を閉じた。
静けさが、また戻ってくる。
顔を上げると、台所の水切りかごが目に入った。
朝、要が出したお椀が四つ。
一つは、今日も使われなかった。
***
「ママ」
廊下から、声がした。
振り返ると、要が立っていた。
寝間着のまま、部屋の入り口のところで、半分だけ体を出している。
「どうしたの。眠れない?」
「……べつに」
要は、床の一点を見ていた。
何か言おうとして、口を開きかけてやめる。
「パパは……」
「うん?」
「……ううん。なんでもない」
要はそれだけ言って、背を向けた。
「要」
呼び止めると、足が止まった。
けれど、振り返らなかった。
「おやすみ」
結局、由奈の口から出たのは、それだけだった。
「……おやすみ」
小さな足音が、廊下の奥へ消えていく。
由奈は、しばらくその場に立っていた。
(今、聞くべきだった?)
分からなかった。
あの子が自分から言うまで待つのが、正しい気もした。
待っているあいだに、あの子が一人で飲み込んでしまう気もした。
玄関のほうに、目をやる。
晃のスリッパが、きちんと揃えて置いてあった。
由奈が揃えたものではない。
明日香が、毎日几帳面に直しているのだ。
誰も履いていないスリッパが、毎晩きれいに揃っている。
由奈は、台所の電気を消した。
窓の外の街灯が、急に近くなる。
要の言いかけた声が、耳の奥に残っていた。
(明日、聞こう)
明日になれば、まだ何とかなる。
この時はまだ、そう思っていた。
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