第31話 目を開けたあなたへ
『リディアの意識が戻った』という一報が入った。
医官の部屋へ続く廊下を、レオンの足は思うように進まなかった。
一歩ごとに、床が重くなる感覚に襲われた。
『……止まってどうするの。もう扉は、すぐそこよ』
耳の奥に、聞き慣れた声が響く。
カヤだった。
「分かっている」
誰にも聞こえぬよう、レオンは低く応じた。
「分かっているが……どんな顔をして入ればいい」
『謝りに行くんでしょ。表情なんて選んでる場合?』
呆れたような、それでいて突き放さない声だった。
「俺のせいで、あいつは刺された。原因を作ったのは、俺だ」
『うん』
「その俺が、のこのこ見舞いに行って……何を言えばいい」
『言うことなんて、決まってるじゃない』
カヤの声が、少しだけやわらかくなった。
『難しく考えないの。「無事でよかった」。それだけ、まず言うだけでいいわよ』
レオンは、扉の前で立ち止まった。
握った拳の中に、汗が滲んでいる。
戦場では、こんなに手が湿ったことはなかった。
「……行ってくる」
『うん。ちゃんと見ててあげるから』
その一言に、背中を押された気がした。
レオンは、静かに扉を叩いた。
***
白い天井が、ぼんやりと滲んでいた。
リディアが最初に感じたのは、脇腹の鈍い痛みだった。
息を吸うたびに、そこがずくりと疼く。
体が、鉛のように重い。
指先を動かすだけで、ひどく骨が折れた。
(……生きて……いるのね)
まぶたを持ち上げるのに、ずいぶん時間がかかった。
視界が像を結ぶまで、さらに数拍。
どれほど眠っていたのか、見当もつかなかった。
ただ、窓から差す光の色だけが、朝のものだと教えてくれる。
二度、扉を叩く音がした。
応える声を、うまく出せない。
喉が渇いて、掠れた息が漏れるだけだった。
それでも扉は、遠慮がちに開いた。
「……リディア姫」
入ってきた人影に、リディアは目を細めた。
レオンだった。
いつもの張り詰めた気配が、今日はどこか頼りない。
彼はリディアの目が開いているのを見て、その場に立ち尽くした。
「……起きていたのか」
「今、ちょうど」
声は、自分でも情けなくなるほど細かった。
レオンは、寝台の傍らまで来て、ぎこちなく腰を下ろす。
大きな体を、どう扱えばいいのか分からない、という様子だった。
「痛むか」
「……少し。ですが、生きております。贅沢は申しません」
リディアは、口の端だけで微笑んだ。
本当は、笑う力さえ惜しかった。
レオンは、しばらく言葉を探していた。
武骨な指が、膝の上で所在なく握られては開く。
「……すまなかった」
やがて、絞り出すように言った。
「あの場を整えたのは俺だ。傷を負った責任は、俺にある」
「……」
「この責任は、俺が必ず償う」
その一言が、部屋に落ちた。
リディアは、まばたきを一つした。
(……『償う』と仰いましたわね)
北国の姫として育った耳は、言葉の重みを聞き分ける。
王が、一人の姫に向かって「責任を償う」と口にする。
それが本来、どういう意味の言葉なのか。
(……待って)
意味に追いついた瞬間、首の後ろから一気に熱が上がった。
リディアは、とっさに枕の上で顔を背けた。
その動きを、レオンは正面から見ていた。
(……断られたか)
当然だ、と思った。
自分が整えた場で刺させておいて、償うだのと言う男の顔など、見たくもないだろう。
『――ちょっと、王様!』
耳の奥で、カヤの声が跳ねた。
『今の、どういう意味で言ったの? 「償う」なんて、相手が姫様だと、ほとんど求婚よ!』
「――は?」
実際に、間の抜けた声が口から出た。
「……陛下?」
「い、いや」
レオンは咳払いを一つした。耳の縁が、やけに熱い。
「今のは、言葉の選び方が悪かった。俺が言ったのは、治療と、警備の落ち度と……そういう、諸々のことだ」
レオンは、そこで言葉を使い切った。
『うわ、下手っ! さっきより下手になってるよ!』
(黙っていろ)
背を向けたままのリディアの肩が、小さく震え出した。
痛みかと思って腰を浮かせたところで、レオンはそれが笑いだと気づいた。
「……っ、ふふ」
「おい」
「申し訳ありません……笑うと、傷に響きますのに」
リディアは、ゆっくりと顔を戻した。目尻がまだ赤い。
「わかってますわ、陛下」
「……何が」
「陛下がどういう意味でおっしゃったのか、ということです。ご心配なさらないでください」
レオンは何か言いかけて、やめた。
結局、「……そうか」と低く言って、膝の上で手を握り直した。
――だが。
そのささやかな温もりは、長くは続かなかった。
「その、カリナ様は……」
リディアは、乾いた唇を開いた。
「私を守れなかったと……気に病んでいるのではなくて?」
問われたレオンの表情が、目に見えて硬くなった。
その一瞬を、リディアは見逃さなかった。
「……陛下?」
「カリナは、無事だ」
レオンは、慎重に言葉を選んだ。
「事件の後、自国の裁きとして謹慎になった。それも、もう解けている」
「……それは、よかった……」
リディアの目が、彼の顔を探る。
「ですが、そのお顔では……まだ、何かありますのね?」
レオンは、しばらく黙っていた。
だが隠し通せる相手ではないと、分かっていた。
「北国が……要求してきた。カリナの身柄を引き渡せ、と」
リディアの喉が、小さく鳴った。
「……父上が」
「応じねば、開戦だと」
言葉が、部屋の空気を凍らせた。
「渡すつもりはない。だが――」
レオンは一度、言葉を切った。
「ガルドが、妹の代わりで北国へ発った。今頃はもう、国境を越えているだろう」
リディアの指先が震える。
脇腹の痛みなど、どこかへ消えてしまうほどの、別の痛みだった。
(私が、倒れたせいで)
公開の祈りで、自分が刺されたこと。
それが引き金になって、自国は牙を剥いた。
カリナが追い詰められ、ガルドが身を差し出す羽目になった。
その連なりのいちばん最初に、自分がいる。
「……私のせいですのね」
「違う」
レオンは、即座に否定した。
「姫が刺されたことに、自身に罪はない」
「ですが、事実として――」
「リディア姫」
強い声だった。
だが、リディアの耳には、もう半分しか届いていなかった。
北国。父王。駒。
その三つは、いつも一組になって自分を縛ってきた。
そして今、その盤の上で、自分の代わりに人が倒れようとしている。
リディアは、天井を見上げた。
体は鉛のように重い。浅く息を吸うと、脇腹がずきりと痛んだ。
(父上。私を駒とお思いなら、それで結構です。ですが……)
どの枡へ進むかは、自分で決める。
リディアは、痛みを噛み殺して、木目の一点を睨みつけた。
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