第26話 駒への通達①
―――異世界・アルカディア王国―――
医官の部屋を出ると、廊下の空気はやけに冷たかった。
レオンは扉に背を預け、しばらく動けなかった。
リディアの息は、浅いがまだ続いている。
それだけが、今のところ唯一の救いだった。
白い包帯に幾重にも巻かれた脇腹、血の気の引いた顔、微かに震える睫毛。
目を覚ます保証は、どこにもないと医官は言った。
拳を握る。
爪が、手のひらに食い込む。
――守れなかった。
カリナの声が、まだ耳に残っていた。
「申し訳ありません」と、震えながら絞り出したあの声。
だが謝るべきはカリナではない。
会場の警備を最終的に許可したのは自分だ。
北国の使節を迎えると決めたのも、和平の道を選んだのも、すべて自分の判断だった。
(......俺が決めた)
その結果が、これだ。
レオンは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
もう何度目かも分からない繰り返しだった。
自分を責めている暇はない。
分かっていても、拳の力は緩まなかった。
***
執務室に着くと、シグルがすでに待っていた。
いつもの穏やかな笑みはない。
整った姿勢は変わらないが、表情の奥にある静けさが、常とは違う種類のものだと分かった。
「陛下」
短く呼びかけ、シグルは一通の書状を差し出した。
封蝋には、見慣れた紋章。
北国・ノルトハウゼンの国璽だった。
「先ほど、早馬で届きました。護送も物々しく、事の重さを見せつけるような届け方でしたよ」
「やはりな」
レオンは短く言って、封を切った。
文面は、簡潔だった。
簡潔であることが、かえって刃のようだった。
『アルカディア王国の警備不備により、我が国の王女が神殿にて重傷を負った。
これは両国間の信頼を、根底から揺るがす重大事である。
貴国は速やかに責任の所在を明らかにし、相応の賠償をもって誠意を示されたし』
言葉こそ丁寧だが、行間には明確な断定があった。
これはアルカディアの落ち度である、と。
だが実際に短剣を振るったのは何者だったのか。
その一点には、ただの一言も触れられていない。
レオンの指先が、紙の端を強く握った。
「……知っていて書いているな、これは」
「ええ。触れれば藪蛇になる、とでも判断したのでしょう。あるいは――」
シグルは言葉を切った。
「最初から、そこには触れさせるつもりがない」
レオンは書状の続きに目を落とす。
賠償の内容は、具体的な数字と共に並んでいた。
金額。
物資。
そして最後に、事務的な短い一文。
『なお、侍女エルザは職務報告のため、本国へ帰還した』
それだけだった。
名前の後に続く説明も、詫びの言葉も、何もない。
まるで、備品の返却を告げるような一文だった。
レオンは、しばらくその一行を見つめたまま動かなかった。
「……これだけか」
「はい。それだけです」
シグルの声にも、微かな苛立ちが滲んでいた。
「リディア様の傍にいた侍女頭が、王女が意識を取り戻すかどうかも分からないこの状況で、報告のため帰還.....ですか。まるで任務を終えた駒を、次の盤へ移すような書きぶりですね」
シグルの脳裏に、混乱の場で見たエルザの姿がよぎる。
血に染まったリディアの衣を一瞥し、それから静かに目を細めた、あの顔。
怒りでも悲しみでもない、冷えきった微笑。
(あれが、最初から答えだったのか)
「ところでエルザは、姿を見せたのか? 出立の際、誰かに」
「いいえ」
シグルは首を振った。
「気づいたときには、すでにいなかったそうです。侍女頭としての引き継ぎも、リディア様への見舞いの一言もなく」
沈黙が落ちる。
レオンは書状を執務机に置いた。
紙の上で、賠償額の数字だけが、やけに整然と並んでいる。
「リディアは、北国にとって何だったんだ」
誰に向けた問いでもなかった。
だが、答えはすでに文面が語っていた。
交渉の駒。
役目を終えれば、報告書の一行で片付けられる程度の存在。
レオンの中で、何かが静かに焼けた。
怒りとは少し違う。
もっと重く、もっと冷たいものだった。
「陛下」
シグルが静かに口を開く。
「これは、まだ始まりに過ぎません。今回の賠償要求は......様子見です」
「様子見?」
「向こうの本当の狙いは、まだ来ていない。この程度の要求で我々がどう動くか、どこまで譲るか、それを測っているに過ぎないでしょう」
シグルの目に、初めて鋭さが戻った。
「本命は、別の使者と共に来る。私はそう見ています」
レオンは書状の上の賠償額を、もう一度見下ろした。
数字は何も語らない。
語らないからこそ、その裏にあるものを想像するしかなかった。
(次は、何を要求してくる?)
窓の外では、夜がまだ明けていない。
医官の部屋の方角へ、レオンは一度だけ視線を向けた。
リディアの浅い息を思い出す。
守ると誓ったはずの相手が、こんな一枚の紙切れで駒として扱われている。
それを許せば、自分もまた同じ側の人間になる。
「シグル」
「はい」
「返答は待たせるな。だが――安易に頭を下げることもしない」
短い言葉だった。
だがそこには、迷いのない芯があった。
「かしこまりました」
シグルは一礼し、書状を手に取る。
その所作の端々に、静かな緊張が滲んでいた。
嵐は、まだ始まったばかりだった。
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