ガルド編:呼ばなくなった名前
扉を閉めても、ガルドはしばらく取っ手から手を離せなかった。
肩に触れようとして、途中で止めた手だった。
触れたところで妹の何かが軽くなるわけでもない。
そう考えて下ろした。
下ろしたはずの指が、まだ強張っている。
歩き出すと、廊下の端で見張りの騎士が背筋を伸ばした。
ガルドは顎を引いて応え、そのまま通り過ぎる。
妹の部屋の前に、自分の部下を立たせている。
この事実をどう呼べばいいのか、考えるのはやめた。
(言葉が足りん)
昔からだ。
人を動かす命令なら、いくらでも出てくる。
隊列を維持しろ。
退がれ。
来賓席を守れ。
それが妹一人を相手にすると、途端に喉の奥で詰まる。
「お前のせいじゃない」
あれで足りたとは、自分でも思っていない。
だが、あれ以上に何を言えばよかったのかは、今も浮かばなかった。
***
執務室へ戻るつもりだった。
気がつくと、渡り廊下を逆に折れていた。
訓練場に人の気配はない。
灯火は落とされ、石床が月明かりを鈍く弾いている。
壁際の立てには、木剣が二十数本。
ガルドはその中の一本に手を伸ばした。
握りの太い、古い型だ。
今の団では使わない。
新兵にも配らない。
なぜまだ残っているのか、誰も気にしていないのだろう。
柄を握ると、握りの位置はもう決まっていた。
まだ背丈が並んでいた頃、この形の木剣で毎日のように打ち合った相手がいる。
***
王宮の訓練場は、子どもの目には広すぎた。
騎士団長だった父に連れられて上がった日、隅で素振りをしていたガルドに、同じ年頃の少年が声をかけてきた。
「なぁ! 一本、やるか」
挨拶も名乗りもなかった。
ガルドは黙って構え、直ぐに床に転がされた。
「お前、弱いな」
腹の立つ言い方だった。
だから翌日も来た。
その翌日も来た。
半年で、勝ち星は追いついた。
互いに数を数えるようになったのは、その頃からだ。
三十七対三十六。
四十二対四十四。
日が暮れて手元が見えなくなっても、どちらも「もう一本」と言った。
「レオン、そこは打ち込みが早い」
「うるさい! お前は足が止まるじゃないか!」
言い合いの中身は、いつもその程度だった。
その男が誰の息子なのかは知っていた。
知っていたが、この場所の中では関係がなかった。
***
レオンが王太子に立った日も、ガルドは訓練場にいた。
城の中は朝から騒がしく、大人たちが廊下の隅で声を潜めていた。
それでも夕方になると、レオンはいつも通り木剣を担いで現れた。
「遅いぞ」
こちらが先に言った。
「知るか。色々と長かったんだ」
服だけが妙に立派で、本人にまるで似合っていなかった。
ガルドは笑い、レオンは眉を寄せ、二人は日が落ちるまで打ち合った。
何も変わらない。
その日は、そう思っていた。
家に戻って、父に呼ばれた。
「殿下を名で呼んだそうだな」と言われた。
叱責ではなかった。
父は静かに、家の立場と、これから先の年月について話した。
ヴァルニールは代々、王家に人を出す家だ。
剣も、名も、いずれは子も。
差し出す側の人間が、差し出す相手を名で呼ぶものではない。
話は長くはなかった。
ガルドは頷いた。
翌日、訓練場で、ガルドは言った。
「殿下」
レオンは木剣を担いだまま、こちらを見た。
ほんの一拍だった。
何かを言いかけて、やめたようにも見えた。
「……あぁ」
それだけだった。
その日も二人は打ち合い、ガルドが勝った。
勝ったのに、数を数えるのを忘れていた。
次にレオンが訓練場に来たのは、十日ほど後だった。
その次は、もっと空いた。
***
木剣を立てに戻す。
木の乾いた音が、無人の場に短く響いた。
あの一拍に何があったのか、ガルドは今も知らない。
あのとき聞けばよかったと思ったことは、何度かある。
思っただけで、聞かなかった。
やがて聞ける相手ではなくなり、そのうち、聞きたいと思うこともなくなった。
誰も信じない王ができあがるまでに、何年かかったのかは知らない。
だが、その最初の年月に自分が居合わせていたことだけは、動かしようがなかった。
(それを、俺は見ていた)
見ていて、何もしていなかった。
***
先日の夜のことが、まだ喉に引っかかっている。
『俺がまた間違った道へ行くなら、刺してでも止めろ』
『お前には、その資格がある』
また、資格と言った。
なぜその言葉を選んだのかが、分からない。
止めろと頼むだけなら、忠義とでも職責とでも言い換えられる。
あの男はそうしなかった。
こちらが一度その役を負ったことがあるかのような、妙な言い方だった。
(考えすぎだ)
そう片付けようとして、片付かない。
引っかかっているのは、言葉の中身ではなかった。
あれを言ったときのレオンの目が、木剣を担いで「一本、やるか」と言った頃の目と、同じだったからだ。
『変わった』と周りは言う。
変わったのではなく、戻ったのだとしたら。
だとすれば、間に挟まった十数年は何だったのか。
ガルドは奥歯を噛んだ。
あの夜、一度だけ名を呼んだ。
人払いをした訓練場で、二人きりだからという理由をつけて。
咎められはしなかった。
それより始末が悪いことに、自分の声が思っていたより自然だった。
信じるわけにはいかない。
妹を預ける気にもならない。
その二つは今も本心だ。
本心のはずなのに、あの夜から、口にするたびに舌が重くなる。
***
馬の嘶きが、城門の方から夜気を裂いた。
一頭ではない。
走らせ方も乱暴だ。
ああいう入り方をする使者は、良い報せを持ってこない。
ガルドは訓練場を出た。
廊下に出たところで、松明を掲げた騎士が駆けてくるのが見えた。
「団長! 北国より、早馬が――」
最後まで聞かなかった。
腰の剣が、走るたびに脇を打つ。
妹の腰には、今それがない。
(やはり来たか)
誰に向けた言葉でもなかった。
ガルドは、廊下を蹴った。
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カリナ編と同じく25話の後のお話と、22話の内容を引き継いでいます。




