カリナ編:剣のない夜に
剣帯のない腰は、想像していたより軽かった。
軽いはずなのに、カリナはずっと立っていられないほどの重さを感じていた。
謹慎を言い渡されたのは、昼過ぎのことだった。
処分の内容を告げた上官の声は、思いのほか静かだった。
叱責でも罵倒でもなく、ただ事務的に。
それが、かえって堪えた。
剣を預けろと言われた時、手が一瞬だけ強張った。
それに気づいた上官が、目を逸らしたのを覚えている。
同情されるくらいなら、怒鳴られた方がまだましだった。
窓の外はもう暗い。
灯りをつける気にもなれず、カリナは寝台の端に座ったまま、月明かりだけを見つめていた。
部屋の外には、見張りが一人立っている。
罪人としてではない、という配慮なのだろう。
それでも、扉越しに交代の足音が聞こえるたび、カリナは自分が何者になったのかを思い知らされた。
リディアはまだ、目を覚まさない。
医官からの報せは、侍女を通じて短く届いただけだった。
「容態に変化なし」
それだけの一文に、何度も目を落とした。
変化なし、というのは、良い報せなのか悪い報せなのか。
考えても答えは出ない。
ただ、紙の余白ばかりが目についた。
***
目を閉じると、あの瞬間が蘇る。
広場の喧騒。
差し込む陽光。
子どもが転び、小さな悲鳴が上がった、その一瞬。
視線が、逸れた。
ほんの一呼吸分。
それだけのはずだった。
振り返った先で、白刃が光った。
布擦れの音すら聞こえなかった。
気づいた時にはもう、リディアの体が傾いでいた。
抱き止めた腕に伝わった、生温かい感触。
あれが血だと分かるまでに、数拍かかった。
(なぜ、気づけなかったんだろう)
何百回、剣を振ってきたか分からない。
誰よりも早く反応できると、そう信じていた。
守ると決めた人には、迅速に動く。
それが自分だと、疑ったことなどなかった。
なのに、あの一瞬だけ。
最も守らなければならなかった一瞬だけ、体が遅れた。
血に染まったリディアの体温を、両腕はまだ覚えている。
抱き上げた瞬間、腕の中でどれほど小さく震えていたか。
それを守り切れなかったことが、今も情けない。
脳裏に浮かぶのは、あの日の茶会だった。
「先日は助けていただきましたもの」と、リディアがそっと差し出した、真新しい白いハンカチ。
受け取るとき、柄にもなく戸惑った。
護衛としてではなく、友人として渡された、あたたかな贈り物だった。
あの人を、剣以外の方法でも守れた。
そう思えた瞬間が、確かにあった。
なのに一番肝心な時に、剣の方が間に合わなかった。
(そういえば――)
混乱の中、侍女頭のエルザを一度も見ていない。
誰よりも早くリディアに駆け寄っていておかしくない立場のはずなのに。
あの人だけが、最初からいなかったように思い出せない。
(考えすぎだ。今の私に、そんな余裕はない)
振り払うように、カリナは首を振った。
自分を責める理由なら、他に山ほどある。
***
扉を叩く音がした。
返事をする前に、静かに開く。
立っていたのは、ガルドだった。
「……兄上」
「体調は」
短い問いだった。
感情の読めない、いつもの声。
だがその目だけが、わずかに揺れているのをカリナは知っていた。
「問題ありません」
「そうか」
それだけで、会話は途切れた。
ガルドは部屋に入らず、扉のところに立ったまま動かない。
(何か、言いに来たわけじゃない)
ただ、無事を確かめに来ただけだ。
それが分かるからこそ、カリナは俯いた。
「……ご迷惑を、おかけしました」
「お前のせいじゃない」
即答だった。
迷いのない声。
だが、その迷いのなさが、余計に胸を刺した。
妹の失態の責を、黙って引き受けようとしている。
(守りたかったのは、私の方だったのに)
いつか、レオンに問われて答えた言葉を思い出す。
『何を守りたいか』
『――兄を』
それなのに今、守られているのは自分だった。
「休め」
言いながら、ガルドの右手がわずかに持ち上がった。
肩に、触れようとしたのかもしれない。
だがその手は、途中で止まり、結局そのまま下ろされた。
昔からそうだった。
不器用な人だと、カリナは思う。
思うと同時に、目の奥が熱くなった。
ガルドはそれだけ言って、静かに扉を閉めた。
足音が遠ざかっていく。
扉の向こうが静まり返っても、カリナはしばらく動けなかった。
***
右手を、じっと見下ろす。
剣を握り続けてできた、硬い肉刺。
今の自分に残っているのは、もうそれくらいのものだった。
脳裏に、訓練場での記憶がよぎる。
剣を交え、真っすぐにこちらを見返してきた男の目。
『逃げない人だ』と思った。
あの日から、信じると決めた。
その想いに名前をつけたことは、一度もない。
后候補という立場も、どこか他人事のように受け止めていた。
(違う。私が欲しかったのは、そんなものじゃない)
欲しかったのは、隣に立つ資格ではなく。
ただ、守り抜く力だった。
守れなかった今、行き場をなくしたのは、この手の方だった。
それでも、指先の硬さだけは消えていない。
思えば、后候補という肩書きに実感を持てたことは一度もなかった。
夜会のドレスより、鍛錬着の方が肌に馴染む。
誰かの隣に並ぶことより、誰かの前に立つことの方が、性に合っている。
(もう一度、剣を握らせてもらえるなら)
次は、何があっても目を逸らさない。
誰でもない、リディアのために。
その想いだけが、肉刺の残る手のひらに、そっと刻まれていく。
***
遠くで、馬の嘶きが聞こえた。
こんな夜更けに、しかも急いた足取りで。
尋常でない気配に、カリナは顔を上げた。
窓の外、城門の方角に松明の灯りが揺れている。
早馬が、駆け込んでくる。
複数の足音が、廊下の向こうを慌ただしく行き交い始めた。
誰かが誰かを呼ぶ声。
扉を叩く音。
いつもの夜には聞こえない種類の音ばかりだった。
扉の外に立つ見張りの気配も、微かに揺れた。
嫌な予感が、胸の奥で疼いた。
(また、何か始まる)
剣のない腰に、カリナはもう一度手をやった。
見張りの足音が、扉の外で止まった。
カリナは、闇の中で息を潜めたまま、次の音を待った。
冷たい夜気が、窓の隙間から忍び込んでくる。
剣を握っていない手のひらが、こんなにも寒さを拾うのだと、カリナは初めて知った。
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25話直後のお話になります。




