シグル編:羽ペンを置けない夜
―――王宮 執務室 (カヤの声が途絶えた日の夜)―――
「身に余るお言葉です、陛下」
そう答えたときには、もう次の手順を頭の中に並べ始めていた。
使者の帰着予定。
神殿前広場の警備配置。
神官長に不満を持っていそうな者の名。
並べているうちに陛下は書類を伏せて席を立ち、私室へ下がられた。
扉が閉まる。
シグルは、羽ペンを握ったまま動かなかった。
穂先のインクが乾き始めていることに気づいたのは、しばらく経ってからだった。
***
今日一日、シグルは陛下を数えていた。
水を口にされたのは三度。
同じ書類を読み返された回数は、覚えている限りで七度。
そのうち二度は、目が同じ行の上で止まったまま動かなかった。
十年仕えて、あの方が文字を追えなくなるところを見たのは初めてだった。
戦場の報告書でも、財務の帳面でも、目だけは必ず先へ行く方だ。
それが、今朝は止まった。
そのあと、陛下は立ち上がって決めた。
表では返還を求め、裏では取り戻す準備をする、と。
(――やはり、この方は)
あの瞬間、胸の奥が熱を持った。
迷いの果てに必ず決める。
それが自分の惚れ込んだ主君だ。
問題は、そのあとだった。
「お前がいて、助かる」
あの一言を受け取った瞬間、胸に立ったものが、別の種類のものだった。
***
(……嬉しかったのだ)
認めるのに、少し時間がかかった。
十年前、遠征から戻った日に跪いて言った言葉を、シグルは正確に覚えている。
いつか陛下が心から誰かを信じられる日が来るまで、側にいる。
当時は、遠い誓いのつもりだった。
三年か、五年か。
あるいは自分が老いるまで来ないかもしれないと、半ば覚悟していた。
その日は、思っていたよりずっと早く来た。
ただし、相手は自分ではなかった。
カヤ様の名を初めて聞いた日、シグルは膝をついて忠誠を誓った。
あれは芝居ではない。
今も一片も揺らいでいない。
陛下が誰かを信じられるようになった。
望んでいたのは自分だ。
望んだ通りになったのだ。
ただ、あの日から、名前をつけていないものが胸の底に沈んでいる。
名前をつければ扱わなければならなくなるので、つけずに置いてきた。
それが今夜、浮いてきた。
浮いてきた形が、あまりにも悪い。
カヤ様が、陛下から引き剥がされた。
その日に、自分は頼られた。
そして、嬉しかった。
***
シグルは羽ペンを置いた。
置いて、すぐにまた取った。
(それで、どうする)
この手の感情は、悔いても消えない。
長く官僚をやっていれば、それくらいは分かる。
消えないものを消そうとする時間が、いちばん高くつく。
ならば、扱い方は一つしかない。
シグルは新しい紙を広げた。
公開の祈りの日取り。
神殿側の準備期間。
セレス様に話を通す順序。
一日でも早く核に触れ、一日でも早くカヤ様を陛下のもとへ戻す。
それは、自分が二番目の席へ戻るための作業でもあった。
声が戻れば、陛下はまた何かを決める前にカヤ様へ話しかけるようになる。
執務室で虚空に相槌を打ち、こちらが入っていくと少しだけ気まずそうな顔をされる。
あの顔を、この一日で何度思い出したか分からない。
結構なことだ、とシグルは思う。
誰かを信じられる王でいてもらうために、十年やってきた。
その相手が自分でなければならない理由など、どこにもない。
(私が頼られるのは、あの方が欠けている時だけでいい)
書きかけの線に、シグルは短く印をつけた。
むしろ、そうでなくてはならない。
宰相が主君の唯一の支えになっている国など、いずれ必ず傾く。
***
蝋燭が一本、根元まで落ちた。
替えを立てながら、指先にインクの染みがあるのに気づいた。
いつ付いたのか思い出せない。
爪の脇まで黒い。
こういうものを見落とすようになったら、書類の数字も見落とし始める。
シグルは布で指を拭い、それから、腹が減っていることに初めて気づいた。
食事を出させるのを忘れていたらしい。
誰も声をかけてこなかったということは、自分の顔がそれなりに険しかったのだろう。
立ち上がるのはやめて、水だけ飲んだ。
三本目に火を移す頃には、部屋の空気の匂いが変わっていた。
夜の匂いではない。
シグルは紙の隅に、小さく数字を書いた。
公開の祈りまでに要する日数の見積もりだった。
その数字をしばらく眺めてから、羽ペンの先を削り直した。
(まだ、削れる)
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第14話のお話のシグルの話になります。
どれだけレオン様の事が好きなんでしょうねぇ....




