第25話 崩れた舞台の上で③
―――現実世界 小林家 リビング―――
(間に合わなかった)
その言葉が、由奈の頭の中で何度も反響していた。
スマートフォンを握る手に、まだ力が入らない。
ついさっきまで、王様の声が聞こえた。
彼の気配も、あの懐かしい不思議な温度も、たしかに戻ってきた。
失っていたものが繋がったという喜びは、本当なら胸がいっぱいになるほど大きかったはずなのに、今はその余韻すら、血の気の引くような後悔に押し流されていた。
リディアが倒れた。
あの瞬間、由奈は声を失った。
自分は確かに気づいていたのに。
セレスじゃない、その先だと。
本当に危ないのは別にいると、あそこまで読めていたのに。
それでも間に合わなかった。
「……なんで……」
掠れた声が、静かなリビングに落ちる。
返事はない。
胸の奥が、じくじくと痛んだ。
さっきまで息苦しさを押しのけるように張りつめていた身体から、一気に力が抜けていく。
それでも頭だけは妙に冴えていて、かえって辛かった。
読めたはずだった。
読めたのに、止められなかった。
由奈は唇をきつく噛んだ。
物語の中で起きたことなのに、まるで自分の手から誰かが滑り落ちたような感覚があった。
王様も。
カリナも。
リディアも。
みんな、ぎりぎりの場所で踏ん張っていたのに。
そこまで考えて、由奈はふと気づく。
「これはもう、『先読みして助言する』だけの話じゃない」
これまでは、作者の癖を読めば、次の危機の輪郭くらいは掴めた。
どこに罠があって、誰が傷つきやすくて、どうすれば破滅を避けられるか。
少なくとも、その入口くらいは見えていた。
けれど今、盤面そのものが崩れた。
神殿。
北国。
王家。
騎士団。
婚姻。
外交。
全部が一度に絡まり合って、もう「この作者ならこうする」の一言で追える段階ではなくなっている。
由奈は自分のノートへ視線を落とした。
セレス、カリナ、リディア。
さっき書いた名前が、やけに遠く見える。
「……ここから先は、もう……」
読めない。
言葉にした瞬間、ぞっとした。
自分の武器だと思っていたものが、急に頼りなくなった気がしたからだ。
読者としての勘。
作者の手癖を読む力。
それは確かに、ここまで由奈を支えてきた。
でも、今はその先に来てしまった。
異世界では、もう物語の登場人物たちがそれぞれの立場で動き始めている。
王は王として。
騎士は騎士として。
姫は姫として。
聖女は聖女として。
そして自分は――
「……見てることしか、できない」
ぽつりとこぼれたその言葉は、思った以上に苦かった。
(いや、そうじゃない)
見ているだけではだめだと、ついさっき思ったばかりじゃないか。
神様ってこういう気分なのかな、なんて呟いたくせに、ただ見守るだけでは苦しすぎると思ったはずだ。
それなのに今は、何をどうすればいいのかわからなかった。
スマートフォンの画面は静かだ。
つながったままなのか、途切れたのかも、すぐには判別できない。
異世界の向こうでは、きっとまだ混乱が続いている。
王様は動いている。
シグルも、カリナも、ガルドも。
今この瞬間も、自分の持ち場で戦っている。
その時だった。
テーブルの上に置いていたスマートフォンが、突然震えた。
びくり、と由奈の肩が跳ねる。
画面を見ると、表示されていたのは晃の名前だった。
「……晃?」
急いで通話を取る。
耳に当てると、向こうはひどく騒がしかった。
ざわざわとした人の声。
何かを怒鳴る上司のような声。
遠くで鳴り続ける電話の音。
「もしもし!?」
『ああ、由奈か』
晃の声はいつも通り低かった。
けれど、その低さの奥に、押し殺した緊張があった。
「どうしたの? 今どこ?」
『会社』
「会社? まだ帰ってないの?」
『当分、家に帰れそうもない』
由奈は息を呑んだ。
「……なんで?」
問い返した瞬間、自分の声が少し裏返っているのがわかった。
胸の奥に、また別の種類の嫌な予感が広がっていく。
晃は少しだけ黙った。
その沈黙が、逆に恐ろしかった。
『テレビでも今、流れてるだろう』
低く押し殺した声だった。
『見てみろ』
嫌な予感が、輪郭を持つ。
「晃、何が――」
『後で詳しく話す。とにかく今日は帰れない。子どもたち、頼む』
それだけ言うと、電話は慌ただしく切れた。
由奈はしばらく、暗くなった画面を見つめたまま動けなかった。
嫌だ。
胸の奥が、ひやりと冷える。
さっきまで異世界の崩壊を見ていたせいで、感覚が過敏になっているのかもしれない。
でも、そんな生やさしいものじゃないと、どこかでわかっていた。
由奈は震える手でリモコンを掴み、テレビをつける。
いつもの情報番組は消えていた。
画面の上部には赤い帯。
アナウンサーの表情も、張りつめている。
『速報です。都内の大手企業――』
社名は、由奈の耳にも聞き覚えがあった。
晃の勤める会社だ。
『顧客情報およそ数千万人分が外部へ流出した可能性があることがわかりました――』
由奈の指先から、リモコンが滑り落ちた。
「情報流出……」
声にならない声が漏れる。
テレビの画面には、会社のビルの映像、慌ただしく出入りする社員たち、深刻そうな顔で頭を下げる広報担当者らしき人物が次々映し出されていた。
テロップが、嫌になるくらい冷静な文字で事実を積み上げていく。
顧客情報。
流出。
調査中。
対応本部。
会見予定。
「うそ……」
膝の力が抜ける。
由奈はそのままソファへ座り込んだ。
「ここまで……重なるなんて……」
異世界では、王宮の内側に敵が入り込み、北国が混乱を利用して盤面を崩した。
現実では、会社の内部から情報が漏れた。
信じていた内側が、壊される。
あまりにも似ていた。
偶然だと笑い飛ばせるような重なり方ではない。
由奈の胸に、重く冷たいものが沈んでいく。
晃は今、どこで何をしているのだろう。
責任を問われているのか。
対応に追われているのか。
部下を庇っているのか、自分を責めているのか。
思い浮かぶのは、つい昨日の、卵がゆを差し出した不器用な横顔だった。
ようやく少しずつ、ちゃんと話そうとしてくれていた。
一緒にやろうと言ってくれた。
その人が今、また別の場所で、ひとりで何かを背負おうとしている。
王様もそうだ。
晃もそうだ。
守る立場にいる人は、どうしてこうも、全部を抱え込もうとするのだろう。
由奈は、ゆっくりと顔を上げた。
テレビはまだ、次々と速報を流している。
スマートフォンの画面は暗いままだ。
異世界も、現実も、同じように崩れ始めている。
だったら。
ただ見ているだけでは、もうだめだ。
異世界では、王様たちが自分の持ち場で戦っている。
なら、現実では自分が立たなければいけない。
家を守る。
子どもたちを守る。
そして、晃が帰ってこられる場所を守る。
それが今の自分の戦いなのだと、由奈はようやく理解した。
胸の奥では、まだ後悔が疼いている。
リディアに間に合わなかったこと。
作者の癖を読めても、止められなかったこと。
その痛みは消えない。
でも、痛みがあるからこそ、立たなきゃいけない。
由奈は、ぎゅっと自分の手を握った。
異世界では王が。
現実では自分が。
それぞれの場所で、守るために立つしかない。
テレビの光が、薄暗いリビングの壁を白く照らしていた。
その明かりの中で、由奈はひとり、静かに目を閉じる。
奪い返したはずの光の先で、世界はさらに深く裂け始めていた。
(第三章 完)
お読みくださりありがとうございます!
ブックマーク、評価、コメントを頂けると大変嬉しいです!!
※24話・25話のダイジェスト動画をあげてあります。
https://youtu.be/4mpDVsp1bqY?si=FIywxjtrbecVHCR9




