第25話 崩れた舞台の上で②
シグルは、走りながら状況を組み立てていた。
核は戻った。
だがそれで終わりではない。
むしろそこからが本命だと、レオンの元に声が戻ったカヤの一言が告げている。
レオン自身からは、具体的な言葉はなかった。
けれど、指し示された方角だけで十分だった。
――リディア姫が危ない。
この展開をまったく想定していなかったわけではない。
しかし、敵はまず間違いなく核を狙うと見て、そちらへ意識を寄せていたのも事実だった。
「来賓席の導線を確保しろ!」
走りながら鋭く命じる。
だが返る騎士たちの動きは鈍かった。
いや、鈍いのではない。
散らされているのだ。
広場のあちこちで悲鳴が上がっていた。
「押すな!」
「子どもがいるぞ!」
「北国の方々を守れ!」
「神殿が崩れる!」
叫び声は互いを打ち消し合いながらも、確実に群衆の恐怖だけを増幅させていく。
あちこちから、ほぼ同時に上がっている。
狙って撒かれた混乱だ。
シグルは舌打ちを飲み込んだ。
(やはり陽動……)
矢は、始まりにすぎなかった。
会場全体を崩す段取りが、最初から組まれていた。
外縁では、ガルドが怒声を飛ばしていた。
「走るな! 押し合うな!」
「東側、来賓席へ人を寄せるな!」
「王席前、道を空けろ!」
騎士団が次々に群衆へ割って入り、人の流れを制御しようとする。
だが逃げようとする者、転んだ者、泣き叫ぶ子どもを抱えた者が折り重なり、秩序は一度崩れたら戻らない。
ガルドの額には、すでに薄く汗が浮いていた。
中央へ意識を寄せれば外縁が崩れる。
来賓席を守れば王席が薄くなる。
全部を守ろうとするほど、全部が少しずつ足りなくなる。
「団長! 西側で接触!」
「南側、民衆が押し寄せています!」
「来賓席へ誘導する者がいます!」
「止めろ! 通路を一本に絞れ!」
命じながら、ガルドは来賓席の方角を見た。
カリナがまだリディアの傍にいるのを視認する。
(ひとまず生きている)
だが、その距離が今は妙に遠く見えた。
***
―――神殿 北国来賓席―――
来賓席では、リディアが立ち上がっていた。
周囲のざわめきは、もはや無視できるものではない。
避難を促す声があちこちから飛び、北国使節の周囲にも人が集まり始めている。
「姫様、こちらへ」
近くの侍女がそう言って手を差し出した。
だがカリナが一歩前へ出て、それを遮る。
「待て。動線を確認する」
声は低く、短い。
いつもの寡黙さのままだが、そこには切羽詰まった鋭さがあった。
リディアは頷いた。
カリナが過剰に警戒しているのではないことを、もう知っている。
カリナは周囲を見た。
人の流れが不自然だ。
北国側の席へ近づこうとする者と、逆にそこから逃がそうとする者が混ざっている。
しかも、どちらもそれらしく見える。
護衛でない者まで口々に「こちらです」「危険です」と叫んでいるせいで、正しい導線が埋もれてしまっていた。
「リディア様、私の後ろへ」
そう言ってリディアを背に庇った時、背後に立っていたエルザが静かに息を吸った。
そのほんの一拍前。
群衆のざわめきに紛れるように、一人の隠密がエルザの近くへ滑り込んでいた。
膝を折るほどの動作すら見せず、ただ主の背後を通る従者のような顔で。
「――失敗しました」
囁きは短かった。
「核は王の手に」
エルザの肩が、ほんのわずかに強張った。
それだけだった。
焦りも、苛立ちも、表には出さない。
静かな侍女頭の顔のまま、ただ一度だけ視線を流す。
その先には、混乱の中で避難導線を見極めようとしているカリナと、彼女に守られるように立つリディア。
核回収は失敗。
ならば次だ。
エルザはごく小さく、指先だけを動かした。
それは周囲の誰にも気づかれない程度の、ほんのわずかな合図だった。
だが、それで十分だった。
会場の別の場所で、買収された人員がさらに大きな声を上げる。
「北国の姫君をお守りしろ!」
「こちらの通路へ!」
「危険です、早く!」
人の流れが一気に捻じれた。
カリナは舌打ちを堪える。
動線が変えられた。
このまま席に留まれば群衆がなだれ込み、かえって危険だ。
避難は必要。
だが動かされている感覚がある。
「……リディア様、移動します。私から離れないでください」
「ええ」
リディアは短く答えた。
その声に怯えはあった。
だが、取り乱しはしない。
北国の姫として、見られていることに慣れた者の気丈さがそこにはあった。
カリナは左手でリディアを庇い、右手を剣へ添える。
前方の混乱、左右の視線、背後の気配。
全部を拾おうとした、その時だった。
目の前で子どもが転んだ。
「っ」
反射的に、カリナの視線が一瞬だけそちらへ向く。
母親が悲鳴を上げ、人波が不自然に膨らむ。
その一瞬。
人垣の陰から、影が滑り込んだ。
光が反射したのは――短剣。
「リディア様!」
叫ぶと同時に、カリナは身を捻った。
剣を抜きざま、最初の一撃を弾く。
金属音が高く鳴り、襲撃者の腕が外へ流れる。
だが一人ではなかった。
もう一つの影が、群衆に紛れてリディアの脇へ入り込んでいた。
避難に追われる者の顔で。
怯えた民衆を装った顔で。
近い、と気づいた時には遅い。
「――っ!」
鈍い音。
布を裂き、肉へ入る感触。
リディアの体が、かすかに揺れた。
声にならない声が、喉の奥で潰れた。
その白い衣装の脇腹に、じわりと赤が滲んでいく。
「リディア様!」
カリナが叫んだ。
返すように剣を薙ぎ、二人目の襲撃者の肩口を深く裂く。
血が散る。
襲撃者はよろめきながらも後ろへ倒れ、人波の中に呑まれる。
だが遅かった。
リディアの膝が崩れる。
カリナは即座に抱き留めた。
「しっかりしてください、姫様!」
リディアは答えようとした。
だが声にはならず、浅い呼吸だけが漏れた。
痛みよりも、何が起きたのかわからない驚きの方がまだ強い顔だった。
血が、カリナの手を濡らしていく。
その時、遅れてシグルが来賓席へ飛び込んできた。
状況を一目で見る。
倒れたリディア。
支えるカリナ。
まだ動く影。
そして、背後で静かに立つエルザ。
説明を待つ必要はなかった。
シグルの剣が閃く。
逃げようとした襲撃者の一人が、そのまま石畳へ崩れ落ちる。
もう一人は短く悲鳴を上げ、群衆の中へ紛れようとするが、シグルは追わない。
まず見るべきは、中心だ。
リディアの前へ膝をつき、傷を一瞥する。
深い。
致命傷と断じるには早いが軽くもない。
シグルの視線が、そのままエルザへ向いた。
「……北国の本当の目的は、これですか」
低く、刃のような声だった。
エルザは一切慌てることなく、ゆっくりと目を細める。
それは怒りでも悲しみでもなく、冷えきった侮蔑に近い微笑だった。
「アルカディア王国の警備は、ずいぶんと杜撰なのですね。他者にその情報が流れるなんて」
静かな声だった。
周囲の混乱とは対照的なほど静かで、だからこそよく通る。
「我が姫が、このような場で傷つけられるとは」
エルザは血に染まり始めたリディアの衣へ一瞬だけ視線を落とし、それから再びシグルを見る。
「これが、どういう意味を成すか。おわかりですか? 宰相殿」
カリナは歯を食いしばったまま、言葉を返せなかった。
守れなかった。
あの一瞬。
視線を切った、たった一瞬の間に刃は届いた。
リディアを抱く腕に、無意識に力がこもる。
「……申し訳、ありません」
かすれた声で漏れたのは、誰に向けた言葉だったのか。
リディアか、自分か、それともここにいない兄か。
リディアは薄く目を開けた。
意識はまだ切れていない。
だが唇は青ざめ、呼吸は浅い。
シグルは即座に立ち上がる。
「医官を! それと来賓席周囲を封鎖しろ! ここから誰も出すな!」
騎士たちが走る。
だが混乱はまだ止まらない。
広場全体が、ゆっくりと確実に崩れ始めていた。
お読みくださりありがとうございます!
ブックマーク、評価、コメントを頂けると大変嬉しいです!!




