第25話 崩れた舞台の上で①
足場が、限界を迎えた。
傾いだ木組みが悲鳴のような音を立て、踏み板が一枚、弾かれるように外れる。
支柱が折れ、仮設の階段は一気に片側へ沈み込んだ。
「きゃ――っ!」
セレスの体が、崩れる足場の上で大きく傾いだ。
(――落ちる!)
そう理解した瞬間、彼女はなおも御像へ向かって手を伸ばした。
離してはいけない。
あれを落としてはいけない。
指先が届く、寸前。
浮き上がっていた核が、ついに胸の窪みから外れた。
赤い核が、ひと呼吸遅れて宙へこぼれ落ちる。
セレスは反射的に身を乗り出し、そのまま落下の勢いに呑まれた。
白い祈りの衣が、空中で大きく翻る。
その次の瞬間には、さらに二の矢、三の矢が風を裂いていた。
狙いは自分ではない。
まっすぐに向かってくるその軌道を見て、セレスは反射的に悟った。
(核だ!あれを狙って――)
落ちながら、セレスはなおも両手を伸ばした。
指先が空を掻く。
二の矢が核の脇を掠め、三の矢がそのすぐ横へ突き立つ。
空中で弾かれるように核の軌道がぶれた。
それでも、セレスは諦めなかった。
「だめ……!」
掠れた声とともに、ようやくその両腕が核を抱え込む。
落としてなるものかと、ただそれだけで身を丸めた。
その姿を見た瞬間、レオンはもう走り出していた。
王席から祭壇までは近い。
何か起きた時にすぐ踏み込めるよう置かれた距離が、ここで生きた。
セレスが落ちる。
その腕の中には、核。
それだけを見て、レオンは石畳を蹴った。
シグルも同時に走り出している。
祭壇の下へ駆け込んだレオンは、落下してくるセレスへ両腕を伸ばした。
祈りの衣の軽い布が、風を孕んでふわりと広がる。
次の瞬間、衝撃が腕の中へ飛び込んできた。
鈍い重み。
だが思っていたより軽い。
レオンは歯を食いしばり、その体を抱き止めたまま一歩、二歩とたたらを踏む。
腕の中でセレスが小さく息を呑んだ。
落下の衝撃で苦しそうに目を閉じているが、両腕だけはまだぎゅっと何かを抱き込んでいた。核だ。
「陛下!」
シグルが鋭く声を飛ばした。
その声とほぼ同時に、再び風切り音が頭上を掠める。
シグルは抜き放った剣でそれを弾いた。
キィンと細い金属音が乾いた空気に散る。
「祭壇からお下がりください!」
周囲の神官が叫ぶがもう遅い。
王が動いてしまった以上、神殿にとっても『何も起きていない儀式』ではなくなった。
しかも混乱は、祭壇の周辺だけで終わらなかった。
「襲撃だ!」
「我々が襲われる!危ないぞ!」
「御像が崩れる!」
別々の場所から、別々の方向へ向けて、恐怖を煽る声がいくつも上がる。
ざわめきは一瞬で悲鳴に変わった。
立ち上がる者、押し合う者、子どもを庇ってしゃがみ込む女、何が起きたのかわからないまま出口へ殺到しようとする群衆。
広場は、たちまち秩序を失った。
「隊列を維持しろ!」
「押し返すな、導線を空けろ!」
「来賓席を守れ!」
外縁から、ガルドの怒声が飛ぶ。
騎士団が一斉に動き始めるが、民衆の波がそれを呑み込もうとしていた。
シグルは広場全体へ視線を走らせた。
不自然なほどに、叫ぶ者たちの位置が散りすぎている。
恐怖が恐怖を呼び、群衆が自ら崩れていくよう計算された混乱だった。
「……仕組まれた混乱ですね」
「わかっている」
レオンは短く返しながら、腕の中のセレスへ視線を落とした。
微かに身じろいだのだ。
「セレス! 大丈夫か」
呼びかけると、セレスは苦しそうにまぶたを震わせ、ゆっくりと目を開けた。
落下の衝撃で息が浅く、頬も青ざめている。
それでも、その腕だけはまだ離れていなかった。
抱きしめるように守られた核が、白い袖の間から覗いている。
「陛下……これを」
差し出された両手の中に、核があった。
石とも金属ともつかない不思議な光沢を帯びたそれは、セレスの体温を移されたように熱を帯びていた。
セレスの手はまだ離そうとしない。
危険を冒しながら、ここまで守ってきたものだ。
陛下へ渡す、その最後の瞬間まで、自分の役目だとでも言うように。
「……しっかり掴んでいろ」
「でも、陛下に……」
「今はいい。まず息を整えるんだ」
セレスは一度だけ頷き、それからゆっくりと核をレオンへ押しつけた。
震えた手から、レオンの掌へ。
触れた瞬間――
凍りついていた何かが、一気に流れ込んできた。
気配、熱、ずっと失っていたもの。
喪失の穴へ水が満ちるみたいに、それはレオンの内側へ戻ってくる。
呼吸が一瞬止まり、次の瞬間には、堰を切ったように繋がった。
『――さま! 王様!』
聞こえた。
間違いなく、あの声だった。
「……カヤ!」
驚愕と安堵と、失っていたものを取り戻した喜びが一度に噴き上がり、ぶっきらぼうな王の表情を崩した。
***
現実世界で、由奈は大きく息を吸い込んだ。
今まで胸を押さえつけていた重しが、嘘みたいに消えていた。
頭の奥で鳴っていた鈍い痛みも、いつのまにか引いている。
息が、ちゃんと胸の奥まで入ってくる。
つながった。
そう思った瞬間、耳の奥へ聞き慣れた声が飛び込んできた。
『カヤ!』
「王様!」
由奈は半ば叫ぶように声を上げた。
やっと通じたこのへの喜び。
セレスもレオン達も無事だったのだと、今すぐそれだけで泣いてしまいたかった。
けれど、それどころではない。
「王様! 再会の喜びは後で! 実は――」
言いかけた、その時だった。
***
異世界で、レオンの耳にもう一つの声が飛び込んだ。
『王様! リディア姫が危ないの!』
カヤの声だった。
先ほどまで封じられていたはずなのに、戻った瞬間にはもう広場全体の異変を掴んでいる。
レオンがハッと顔を上げた。
視線が、反射的に来賓席の方角へ走る。
「――シグル!」
叫ぶと同時に、レオンはそちらを指さした。
シグルは問い返しもしなかった。
命令の意味を一瞬で汲み取り、踵を返して走り出す。
混乱の渦が、来賓席の方角へじわじわと広がり始めていた。
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