第24話 祈りの舞台に立つ者たち③
―――神殿 祈りの広場―――
神官たちの唱える祈りの声が、広場の空気をゆっくりと満たしていた。
低く重なり合う声は、耳に心地よいはずなのに、どこか冷たくもあった。
祝福のための祈りというより、誰かを閉じ込めるための檻のように、幾重にも音が積み重なっていく。
セレスは祭壇の前で、一度だけ息を整えた。
目の前には、御像へと続く仮設の階段がある。
普段、あの核へ人が近づくことは許されていない。
この公開の祈りのためだけに急ごしらえされた木造の足場は簡易的ではあったが、遠目には儀式用の立派な台に見えた。
けれど近くで見れば、あくまで一時しのぎの造りであることはすぐにわかる。
踏み板の継ぎ目。
支柱のかすかな軋み。
磨かれた神殿の床とはまるで違う、木の乾いた匂いがした。
高さにして二メートルほど。
たったそれだけのはずなのに、セレスにはひどく遠く思えた。
裾を持ち上げ、一段目へ足をかける。
ギシッとかすかな音がした。
それだけで、広場中の視線がいっせいに自分へ向いたような気がした。
心臓が大きく跳ねる。
二段目。
三段目。
一段上がるごとに、御像が近づいてくる。
下から見上げていた時よりも、今はその巨大さが現実味を伴って迫ってきた。
白石の台座の上に立つその巨体は、近くで見ればますます人のものではなかった。
刻まれた紋様は、ただの装飾ではなく、何かを縛りつけるための鎖にも見える。
胸の核も、はっきり見えた。
滑らかすぎるほど滑らかな、あの円形の窪みの奥に、確かにいる。
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走る。
『苦しい』と遠くから聞こえていたはずのあの切迫した気配が、前よりずっと近い。
四段目。
五段目。
木の足場がわずかに揺れた。
それだけで足元から力が抜けそうになる。
(怖い。逃げたい。下へ降りてしまいたい)
恐怖を抱えながらも、セレスは上を見た。
あの苦しそうな声を、ここまで聞いてしまった。
祈った時、少しでもその痛みが和らいだように感じてしまったからこそ、自分が行かなければならない。
セレスは胸の前で、指先をそっと握りしめた。
***
王席は祭壇から近い位置に設えられていた。
レオンはそこから、御像とセレスの動きをじっと見つめている。
触れれば、何かが起きるのか。
あそこに本当にカヤがいるなら、反応があるはずだ。
気配が戻るのか、声が届くのか。
いずれにせよ、変化があるならその瞬間しかない。
「……本当に触れたら、わかるか」
低い声で問うと、シグルは視線を広場全体に配ったまま答えた。
「何か起きるなら、その瞬間です。今はまだ動けません」
「わかっている」
レオンはそれ以上何も言わなかった。
御像の胸へ近づいていくセレスの手元を、一瞬たりとも見逃すまいと目を細める。
***
来賓席では、リディアが静かに祭壇を見つめていた。
カリナから、書簡が陛下へ渡ったと聞いている。
警告はレオンの元へ届いたはずだ。
それでも、胸の内の不安は消えなかった。
父王が、何もしないはずがない。
神殿が動き、王家が動けば、その隙へ必ず何かを差し込んでくる。
(父上は、ただ黙って盤面を眺めるだけで終わるような王ではないわ)
それでも、セレスは顔を上に向け御像の前へ進んでいる。
震えながらも、逃げずに階段を上がっている。
その姿を見て、リディアは静かに息を吐いた。
きっと、陛下には話が通じたのだ。
あの交流会で相談できなかったこと。
それが無駄ではなかったのだと思える、小さな安堵があった。
けれど背後には、冷たく静かで、少しも揺るがないエルザの気配がある。
「リディア様」
カリナが、声を落として言った。
「大丈夫です。私もお傍を離れませんから」
リディアは静かに頷いた。
「ええ」
返す声は、自分でも思ったより落ち着いていた。
***
外縁では、ガルドが変わらず部下へ短く指示を飛ばしていた。
群衆の流れ。
来賓席の導線。
王席との距離。
全部を見ようとすればするほど、どこか一つが死角になる。
それでも騎士団長として、この場のどこが崩れても即応できるよう神経を張り詰めていた。
祭壇の下では、オズワルドが聖女の背を見上げていた。
予定通りだった。
民衆は沈黙し、神官は祈りを続け、聖女は御前に立つ。
王も北国の姫も、その舞台を見ているしかない。
今日という日は、神殿の威光を示す完成された場になる。
その確信が、オズワルドの表情から動揺を完全に消していた。
***
セレスは、ついに足場の上り口を越え、御像の前へ立った。
(近い……)
見上げるしかない距離で、石の巨体がそこにある。
胸の核は、手を伸ばせば届く高さにあった。
こんなに近いのに、そこにいる何かには、まだ薄い壁が隔てているような感覚がある。
(――聞こえた)
前よりもずっとはっきりとした、あの苦しそうな掠れた気配。
ひどく疲れ切っているのに、まだ途切れてはいない声。
セレスは胸の前で手を組み、祈りの文言を口にした。
神殿が教えた通りの祈り。
けれど、その意味はもう神殿のものではなかった。
(どうか届いてください。どうか、少しでも苦しみが和らぎますように。あなたを助けたいのです、カヤ様)
最初は震えていた声が、二句、三句と続くにつれて芯を持ち始めた。
命じられた聖女の祈りではなく、セレス自身の願いになっていた。
***
その変化を、レオンは王席から感じ取っていた。
セレスが唱えているのは、ただ神殿から命じられた通りの祈りではないことを。
「シグル」
「まだです」
返答は即座だった。
「動くなら、次の一拍です」
レオンは奥歯を噛んだ。
それだけで答えた。
***
セレスはゆっくりと手を伸ばした。
袖口の白が、朝の光の中でかすかに揺れる。
指先はまだ震えていたが、もう引き返さなかった。
広場にいる誰もが息を呑む。
民衆は奇跡を見るように。
神官たちは神の顕現の一幕として。
レオンはカヤの反応を探るように。
リディアは祈るように。
カリナはいつでも動けるように。
セレスの指先が、ついに核へ触れた。
ひやりとした石の感触。
その奥で、何かがかすかに返ってきた。
セレスの目が見開かれる。
(――届いた)
あの苦しい気配が近くなった。
遠く閉じ込められていたはずの何かが、指先へかすかに応えたという、信じられる感触があった。
だが。
「……え?」
触れた指先の下で、核がわずかに動いた。
埋め込まれているはずのものが、ほんの少しだけ浮いている。
固定されているはずの感触ではない。
不自然な歪みがある。
(どういうこと?)
目を凝らし、顔を近づけようとした瞬間――
鋭い風切り音が、祭壇の上を裂いた。
セレスが反射的に顔を上げる。
矢が、まっすぐ御像の核めがけて飛んできていた。
「――っ!」
次の瞬間、矢は核の縁へ深く食い込む。
その一撃で、核がぐらりと揺れる。
埋め込まれていたはずのそれが、最初から外れるように仕組まれていたかのように、不自然に浮いた。
避けるより先に、セレスは核を庇うように身を寄せた。
さらに、二の矢が飛ぶ。
咄嗟に抑えていた石像から鈍い衝撃が、指先へ伝わった。
同時に足元で、ギシリと嫌な音が鳴った。
木造の足場が大きく軋む。
支柱が震え、踏み板がずれ、何かが外れる音がした。
「え――」
セレスの体が、大きく傾いだ。
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