第22話 剣を交えて、問うものは
―――北国使節団 宿舎 回廊―――
王城の庭は朝の光に磨かれていた。
咲き揃えた花も整えられた芝も、王城の威厳を示すために整えられている。
けれど今のリディアには、その美しさが薄い膜のようにしか思えなかった。
背後で控えていたカリナが、静かに口を開く。
「リディア様」
リディアは振り返った。
カリナはいつも通り背筋を伸ばし、騎士らしい硬さを崩していない。
けれどその灰色の瞳には、普段よりも強い警戒が宿っていた。
「先日の件を踏まえ、申し上げます。リディア様の護衛は、増やすべきです」
「やはり、その話ですか」
リディアは小さく息をついた。
「……大げさではなくて?」
「いいえ」
即答だった。
「むしろ、何も起きていない今だからこそ動くべきです」
カリナは一歩も引かない。
「婚姻が破れる方が北国に有利である可能性がある以上、リディア様ご自身が火種として使われる危険があります。事故を装うことも、王城の失態に見せかけることもできる」
リディアは視線を落とした。
火種。
自分は、そういう立場なのだと、もう知っている。
「……ですが、私一人のために大事にはしたくありません」
言いながら、自分でもそれが半分は本音で、半分は見栄だとわかっていた。
怯えていると見せたくない。
守られるだけの存在だと思われたくない。
そんな幼い意地を、カリナは静かに見抜いたようだった。
「リディア様」
声はやわらかい。
だが揺るがない。
「起きてから守るのでは、護衛の意味がありません」
リディアは顔を上げた。
カリナの言葉には、飾りがなかった。
ただ騎士として守る者の、まっすぐな責任だけがある。
「私が申しておりますのは、リディア様が弱いから守る、という話ではありません」
カリナはまっすぐに言う。
「リディア様が狙われるだけの価値を持ってしまっているからこそ、守らねばならないのです」
リディアはしばらく黙っていた。
その価値が、姫としての価値ではなく、手札としての価値であることも、もうわかっている。
だからこそ、その現実から目を逸らしてはいけないのだろう。
「……わかりました」
ようやく、リディアは頷いた。
「ですが、ただ守られるだけではいたくありません」
その言葉に、カリナの目元がわずかにやわらいだ。
「はい。そうおっしゃると思っておりました」
そこでカリナは、一度だけ周囲を見渡してから声を落とした。
「昨日の席でもお話しした通り、私には陛下へ近づく口実があります。騎士の立場で動けますから、引き続き私が動きましょう」
「……ありがとうございます」
リディアがそう言うと、カリナはほんのわずかに目を伏せた。
「礼には及びません。これは、私の役目ですから」
そう言いながらも、その声には少しだけ照れたような硬さが混じっていた。
***
―――騎士団陣営 執務室―――
同じ頃、ガルドが険しい顔で報告書を見下ろしていた。
机の上に置かれた書面には、短く要点だけが記されている。
北国姫リディアの護衛強化。
候補として挙がっているのは、『カリナ』。
薄く息を吐き、ガルドは書面を置いた。
こうなる気はしていた。
妹は一度守ると決めた相手に対して、妙にまっすぐだ。
止めたところで簡単に引く性格ではない。
だが、それとこれとは別だった。
王家の中枢。
后候補。
北国姫。
そこへ、カリナが入る。
ただの護衛任務ではない。
政治と陰謀の泥の中へ、自分の妹が足を踏み入れるのだ。
窓の外に目をやりながら、ガルドは無意識に奥歯を噛んだ。
『カリナをもっと王に近づけろ』
支援する家門からは、以前から圧があった。
騎士としてだけではなく、候補としても位置を強めろ、と。
虫唾が走る。
けれど完全に無視もできない。
騎士団長としての立場もある。
家の立場もある。
妹の意思もある。
どこにもきれいな答えはない。
「……面倒なことになったな」
低く漏らしたその呟きに、答える者はいなかった。
***
――― 王宮 騎士団訓練場―――
夜。
訓練場には、人の気配がなかった。
昼の喧騒が嘘のように消えた空間で、灯火だけが石床を薄く照らしている。
鉄と汗の残り香が、静かな闇に沈んでいた。
ガルドが足を踏み入れると、すでにそこには人影があった。
木剣を肩に担いだレオンが、振り向きもせずに言う。
「遅いぞ」
昔と変わらぬ、ぶっきらぼうな声だった。
だからこそ、かえって遠いもののようにも聞こえた。
ガルドはわずかに眉をひそめた。
「陛下自ら人払いまでして呼び出しておいて、その言い草ですか」
「二人きりだ。そう堅くなるな」
そこでようやくレオンが振り返る。
灯りの下に立つその姿を見て、ガルドは一瞬だけ、遠い昔を思い出した。
レオンがまだ王太子ですらなかった頃。
王位継承の重みが、今ほど現実のものではなかったのをいい事に、日が暮れるまで剣を交え、勝った負けたで言い合っていた。
あの頃は、確かに「レオン」と呼んでいた。
けれど今は違う。
「呼び出した用件は、カリナのことだろう?」
先に切り出したのはガルドだった。
レオンは木剣を軽く回し、無造作に構える。
「……北国姫の護衛につく、か」
「だそうだ」
ガルドも壁際の木剣を取った。
「カリナが申し出た。表向きは護衛強化。だが実際は、それだけじゃない」
「だろうな」
レオンの返答は短い。
そのあまりにあっさりした態度に、ガルドの胸に小さな苛立ちが走る。
「お前はそれを、どう見る」
「ガルド、お前はどうしたい」
問いを問いで返され、ガルドの眉間が深く寄った。
「聞いているのは俺だ」
一瞬の間を置いて、ガルドは言った。
「……レオン」
名前が口から出た瞬間、空気がわずかに張った。
けれどレオンは咎めなかった。
むしろ、それでいいと言うように口元だけをわずかに動かす。
「……正直に言えば、あまり賛成はしていない」
レオンは木剣の切っ先を下げたまま言った。
「后候補はただの駒じゃない。護衛だろうが何だろうが、軽々しく危険の中に立たせたくはない」
ガルドは一瞬、言葉を失った。
その答えは、予想していたものと少し違ったからだ。
昔のレオンなら、もっと冷たく切り捨てていただろう。
使える駒なら使う。
それだけで済ませたはずだ。
だが、それで警戒が解けるほど、ガルドも甘くはなかった。
「口ではそう言うか」
木剣を構える。
レオンも同じように構えた。
「今までのお前は、誰が傷つこうが気にもしなかった」
踏み込む。
木剣がぶつかり、乾いた音が鍛錬場に響く。
「騎士団の仲間が倒れても、前に進むための損耗としか見ていなかった」
もう一撃。
レオンは受ける。
反撃は鋭いが、昔より無闇に荒くない。
「カリナもその列に加わるなら、俺は黙って見ていない」
踏み込みにこもった怒りに対し、レオンは正面から受け止めた。
「……だろうな」
ガルドの動きが、一瞬だけ止まる。
レオンは木剣を払って間合いを取り、低く続けた。
「そう見られて当然のことをしてきた」
言い訳はしないし、開き直りもしない。
それが逆に、ガルドの胸を苛立たせた。
「なら、なぜ今さらだ」
「今さらだからだ」
短い返答。
再び剣がぶつかる。
火花の代わりに、鈍い木の音が夜気を震わせた。
昔と違う、そう思った。
昔のレオンは、怒りのままに押し切る剣だった。
強く、速く、苛烈で、ただ前だけを見る剣。
今の剣は、それでも重い。
だが、相手を見ている。
受けている。
呼吸を読んでいる。
それが、妙に腹立たしかった。
変わったように見えるからこそ、簡単に信じたくなかった。
「俺はまだ、お前を信用していない」
ガルドは言い切った。
「妹を預けていいとも思っていない」
「……あぁ」
レオンの答えに、迷いはなかった。
次の瞬間、レオンが深く踏み込み、剣を打ち込む。
ガルドが受けた衝撃に、腕が痺れる。
「だからガルド、お前に言っている」
レオンは間合いの内側で、低く言った。
「俺がまた間違った道へ行くなら、刺してでも止めろ」
ガルドの目が見開かれる。
木剣がギリッ、と軋んだ。
「お前には、その資格がある」
一瞬、時間が止まったように感じた。
(なぜ、そんな言葉を)
そんな言葉を、かつてのレオンが口にするはずがなかった。
ガルドの脳裏に浮かぶのは、命じることしか知らなかった頃の背中だった。
その男が今、自分に止めろと言っている。
ガルドは答えなかった。
剣を構えたまま、ただ目の前の男を見る。
信じ切れるわけではない。
まだ、信頼を示すにはまったく足りない。
それでも。
少なくとも『昔と同じではないのかもしれない』と、ほんのわずかに思ってしまった。
それが腹立たしく、そして苦しかった。
先に剣を下ろしたのはガルドだった。
「……次は、言葉だけで済むといいな」
そう言って背を向ける。
レオンはそれを呼び止めない。
ただ一言だけ、背中に向けて落とした。
「ガルド」
足が止まる。
「カリナを、便利な駒にするつもりはない」
レオンの静かな声だった。
ガルドは振り返らなかった。
だが、その言葉を聞かなかったふりもできなかった。
「……覚えておく」
それだけを返して、鍛錬場を後にする。
夜風が頬に冷たかった。
警戒は、まだ解けない。
だが完全に切り捨てるには、今のレオンの目は、少しだけまっすぐすぎた。
ガルドは空を仰ぎ、小さく息を吐いた。
「厄介なことになったな、本当に」
誰にともなく呟いたその言葉は、夜の闇に静かに消えていった。
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